大航海時代(読み)だいこうかいじだい

精選版 日本国語大辞典 「大航海時代」の意味・読み・例文・類語

だいこうかい‐じだい ダイカウカイ‥【大航海時代】

〘名〙 一五世紀から一七世紀初めにかけて、ポルトガルスペインに代表される西ヨーロッパ諸国が、大洋航海により新航路新大陸を開拓していった時代バスコ=ダ=ガマインド航路発見コロンブスのアメリカ大陸到達、マゼランの世界一周航海成功などが行なわれ、その後の非ヨーロッパ地域の植民地化をもたらした。

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デジタル大辞泉 「大航海時代」の意味・読み・例文・類語

だいこうかい‐じだい〔ダイカウカイ‐〕【大航海時代】

15世紀から17世紀前半にかけて、ポルトガル・スペインを中心とするヨーロッパ諸国が地球規模の遠洋航海を実施して新航路新大陸を発見し、積極的な海外進出を行った時代。バスコ=ダ=ガマのインド航路開拓、コロンブスのアメリカ大陸到達、マゼランの世界周航などが行われ、世界史上に、近代植民地体制の確立という転機をもたらした。発見時代。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大航海時代」の意味・わかりやすい解説

大航海時代
だいこうかいじだい

西ヨーロッパの15世紀初めから17世紀初めにかけて、イベリア半島の2国(ポルトガル、スペイン)をその先導者とし、それまでの地中海世界から目を地球全域に向け、主として大洋航海によって、それまで伝説的・空想的領域にあった世界の各地が、探検航海により次々に現実に確認されていった時代をいう。その内容が、地球全域にわたって繰り広げられたヨーロッパ人による地理上の「発見」が主体であったために、この時代を「地理上の発見時代」ともいうが、そこにはあくまで従来のヨーロッパ中心の立場からみた「発見」という史観(ヨーロッパ史観)が貫かれている。したがって、それが、その後に続くヨーロッパ近代諸国家による非ヨーロッパ地域の植民地化という事態を結果することにもなったのである。

[飯塚一郎]

時代的背景

イベリア半島にはすでに711年、アラブ人、モーロ人などのイスラム教徒が侵入し、以来780年間に及ぶイスラム支配体制を確立し、ヨーロッパではここだけにイスラム文化の華が咲いた。そのなかでもっとも特徴的なことの一つは、アラビア語に翻訳されたギリシア学がこの地でラテン語に再訳されてキリスト教世界に浸透していったことである。これらのなかには、紀元前5世紀にピタゴラス学派の主張した世界球形説、プラトンなどの主張したアトランティスの存在などが知られていた。また、7世紀セビーリャの聖イシドルスの地球球形説、前2世紀のアレクサンドリアの図書館長エラトステネスの投影図法による最初の世界図、新大陸が予言されている前1世紀のストラボン『地理学』の世界図、さらにポンポニウス・メラPomponius Mela(1世紀)を経て、プトレマイオス・クラウディオスPtolemaios Klaudios(2世紀)の『地理学』、また教父ラクタンティウスLucius Caecilius Firmianus Lactantius、ナジアンゾスのグレゴリオスGregorios ho Nazianzos、アウグスティヌスなどは否定したが、コンシュのギヨームGuillaume de Conches(12世紀)、アルベルトゥス・マグヌス(13世紀)、アバノのピエトロPietro d'Abano(14世紀)、ボローニャ大学のチェコ・ダスコリ(1327)などの対蹠(たいせき)地存在説が知られていた。さらにヤコブス・アンゲリクスのプトレマイオス『地理学』のラテン語訳(1409)、プトレマイオスの地図のイタリア版印刷(1477)、またピエール・ダイイPierre d'Aillyの『イマゴ・ムンディ』(世界の姿)が1410年に書かれ、これはそれまでのギリシア、ローマ、アラビアの諸学者の地球球形説を概説していた。これらの理論的研究と同時に、十字軍やレコンキスタ(国土回復戦争)のなかで、マルコ・ポーロ『旅行記』の東洋に関する記述への関心、あるいはアフリカの奥地にあると信じられていた中世的伝説のキリスト教を信ずるというプレステ・ジョアン(プレスター・ジョン)の国と連絡をつけるという目的、イスラム圏に入ってくる絹、陶器、香料、その他の東洋物産を、イスラム商人の手を経ずに直接手に入れること、あるいは直接東洋に達する道を発見することなどを目的とした現実の探検航海が試みられるようになった。

[飯塚一郎]

ポルトガルの探検

ポルトガル王ジョアン1世(在位1385~1433)と王妃フィリーパ(イギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘)の3人の王子(ドゥアルテ、ペドロ、エンリケ)が、騎士になるための条件の一つとして、1415年、ヒブラルタール(ジブラルタル)の対岸、北西アフリカのイスラムの拠点セウタを攻略した。第3王子エンリケはその後も同地にとどまり、アフリカ西海岸や奥地の情報を得て帰国した。そして、一つにはプレスター・ジョンの国を捜し当てること、もう一つは塩、象牙(ぞうげ)、金、奴隷などを主体とするイスラム貿易圏をキリスト教徒の手に収めることなどの目的で、国をあげて探検航海を推進した。カナリア諸島、マデイラ諸島、アゾレス諸島への航海、1434年エアネスのボアドール岬の回航、1444年セネガル川、翌年ベルデ岬の回航、さらにエンリケ王子の没後、象牙海岸、黄金海岸などの探検、82年にはやがて奴隷貿易の中心地となるエルミナ(現在のガーナ)の城砦(じょうさい)構築(クリストバル・コロンも参加)が行われた。続いてディオゴ・カウンDiogo Cam (Cão)はコンゴ、アンゴラを発見、さらにアフリカ西岸の南進を続けた。

 陸路は1487年以降、王命を受けてペドロ・デ・クビリャンPedro de Covilhãoがアデン経由でインド半島西岸の香料取引地に至り、ペルシア湾岸オルムスから紅海、アフリカ東岸をザンベジ川河口付近まで南下した。

 そしてついに、ポルトガルの最大の功績の一つとなった探検が行われる。バルトロメウ・ディアスが1487年リズボア(リスボン)を出港、翌年初めにアフリカ最南端喜望峰を東へ回航、東海岸を若干北上して1488年12月帰国した。続いてバスコ・ダ・ガマが1497年7月8日リズボアを出港、ベルデ岬諸島を経て喜望峰を回航、アフリカ東岸マリンディを経て1498年5月20日、インド西岸マラバル海岸のコジコーデ(カリカット)に到着した。ここに宿願のインド航路発見が実現し、以後ポルトガルはこの方面に大船団を送ることになる。

[飯塚一郎]

アメリカ大陸の発見

一般にアメリカ大陸の発見者はクリストバル・コロン(コロンブス)とされているが、厳密にいえば、この地へ到達した最初のヨーロッパ人はかならずしもコロンではなかった。9世紀から10世紀にアイスランドからグリーンランドに達していたノルマン人の一隊がすでに北アメリカに至ったという説もあるし、そのころ彼らが残したという地図も発見されている。その後アゾレス諸島やカナリア諸島を再発見したポルトガル人が、大西洋上の伝説の地アンティーラ、「七つの都市の島」、ブラジル島などを探し求めてグリーンランド、北アメリカに達したという説もある。しかし、これらは十分な記録もなく、その後忘れ去られる結果になり、世界史のなかであとに重要な意義をもたなかった。そのような意味から、近代世界史のうえに記録されるべき確証をもったクリストバル・コロンの航海が、この時期(大航海時代)の重要なできごとの一つとしての意義をもつことになる。しかし、コロンは死ぬまで発見地を東洋(インディアス)の一部と考えて、そこの先住民をインディオとよび、近くに黄金の島ジパング(日本)があるのではないかと探し求めたようであるから、「新大陸」を発見したという意識はなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、コロンが西航の「計画」を最初に請願したポルトガルは、アフリカ西岸を南下してこれを東に迂回(うかい)して東洋に達する航路の発見が間近であったためにこれを否決、コロンはスペイン国王イサベルに請願することになる。しかし、スペインのこの方面への探検航海は、国内でのレコンキスタが最終段階を迎えていたために、これに忙殺されてポルトガルに遅れ、コロンの「計画」が許可されるのは、グラナダ滅亡の直後、1492年4月であった。

 コロンの航海は前後4回実施される。第1回は1492年8月3日朝、南スペインのパロスを3隻で出港、カナリア諸島を経て、10月12日未明バハマ諸島の一島を認め、これをサン・サルバドルと命名、さらにキューバ、ハイチ、小アンティル諸島などを確認して、翌年3月パロス港に帰着した。すでに1481年の教皇シクトス4世の教書で、ギニアをはじめアフリカ西岸の発見地がポルトガルの領有として認められていたし、それ以前1479年にアルカソバス条約で、スペインはポルトガル人の発見地とその領有に干渉しないことが決められていた。そこでスペインは、コロンの進言によって早速その発見地の領有を教皇アレクサンデル6世に出願した。教皇は1493年四つの教書を出して、スペインの領有権を認めるとともに、アゾレス諸島およびカーボベルデ諸島の西100レグア(約483キロメートル)の洋上で南北を走る経線を境として、その西側に属する海域の陸地をスペイン領、東側をポルトガル領とすることを決めた。しかし、アゾレス諸島とカーボベルデ諸島では、それぞれ西端の経度で6度の差があり、それぞれから西へ測る100レグアはきわめて不正確であったため、この境界を両国の直接交渉にまかせた。結局、1494年6月7日トルデシリャス条約で、教皇の決めた線をさらに270レグア(約1304キロメートル)西に移動して370レグア(約1786キロメートル)の洋上の南北経線を境界線とすることとした。そのため南アメリカの東側に突出した部分(ブラジル)がポルトガルの領有となった。

 コロンが第1回航海から帰国すると、インディアス発見の「誤」報は全ヨーロッパに伝わり、ただちに第2回目の航海が計画され、1493年9月カディスを出港、前回よりやや南に進路をとり、小アンティル諸島、ハイチなどを探検、1496年帰国した。その後第3回(1498~1500)、第4回(1502~04)と航海を重ねたが、さらに西航する航路がみつからないまま、コロンの立場はしだいに悪くなっていった。

 コロンが第3回航海に出発するころ(1498)には、バスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を回航してインドに到達していた。また、ポルトガル王マヌエルが、ブラジルの発見者とされるペドロ・アルバレス・デ・カブラルの報告を受けて派遣した首席パイロットのアメリゴ・ベスプッチは、1501年5月リズボアを出発、カブラルが前年5月に到着した南アメリカの東海岸サンタ・クルスを経てリオ・デ・ラ・プラタまで達した。さらに大西洋上を南緯46度付近まで南下、南極圏の荒天に阻まれて北東に転じ、アフリカ西岸シエラレオネに引き返し、1502年9月リズボアに帰港した。彼はこの航海で、コロンの到達した大西洋の西の一帯がインディアスではなく、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ「第四の大陸」であることにほぼ間違いないことを確信した。彼がリズボアからロレンツォ・ピエロ・フランチェスコ・デ・メディチにあてた書簡(1503年4月)には、この地が「新大陸」Mundus Novusであると記されている。したがって、この新大陸がアメリゴ・ベスプッチの名をとって、ラテン名「アメリクス」と命名されたのは、コロンがこの世を去った翌1507年のことであった。

[飯塚一郎]

世界周航

コロン(コロンブス)の発見地が「新大陸」であるとすると、これをさらに西へ回航して東洋に至る航路があるのではないかと考えることは当然である。早くも1513年にはスペインのバスコ・ヌニェス・デ・バルボアが太平洋の存在を確認。さらにポルトガル人フェルナゥン・ダ・マガリャンイス(マジェラン)はすでにポルトガルのマラッカ遠征で活躍していたが(1508~09)、次のインド総督アルブケルケと対立し帰国していた。その後友人フランシスコ・セラウンのモルッカ諸島の模様を知らせた手紙や、親友で宇宙誌学者ルイ・フェレイロの意見などから、ガマの発見した従来のアフリカ南端を迂回するポルトガルのインド航路によらずに、南アメリカを西へ回航してモルッカ諸島へ達する計画をたてた。ポルトガル国王マヌエルに請願したが、いれられず、セビーリャに移り、スペイン国王カルロス1世の許可を得た。彼は総指揮官に任命され、5隻の船隊に265人を乗せ、1519年9月20日サン・ルーカルを出帆した。南アメリカ南端にマゼラン海峡を発見、これを抜けて太平洋に出ることに成功、4か月の苦難のすえようやくサン・ラザロ(フィリピン)群島にたどり着いた。彼自身はセブ島東のマクタン島で先住民との戦闘中1521年4月に戦死したが、18人の乗組員が翌1522年9月サン・ルーカルに帰港し、ついに世界一周航海に成功した。

[飯塚一郎]

その他の探検航海

コロン(コロンブス)が第1回航海によってインディアスの一部に到達したという知らせがヨーロッパに伝わると、イングランド国王ヘンリー7世の援助のもとに、ジェノバ生まれのジョバンニ・カボート(カボット)は1497年5月ブリストルを出港した。彼は北航して西航し、ケープ・ブレトン(あるいはラブラドル)島を発見、さらにニューファンドランドを探検し、同年8月ブリストルに帰港した。当時ポルトガルによるアフリカ南端を東へ回航する東洋への航路、スペインによる南アメリカ南端を西へ回航してモルッカ諸島に至る航路の探索に続いて、さらに北西航路あるいは北東航路による東洋への到達が可能ではないかと考えられ、この方面への探検航海が、大航海時代に出遅れたイギリス、フランス、オランダなどによって試みられた。

 父ジョバンニ・カボートの航海に同行したその子セバスティアーノは、1503年には単独で北方航路の探検に出港した。そのほか、イギリスでは、チャンセラーRichard Chanceller指揮下のウィロビーSir Hugh Willoughbyの航海、ジャックマンCharles Jackman、フロビッシャーSir Martin Frobisherなどの航海があった。フランスもカルチエJacques Cartierによりセント・ローレンス川を発見、後のフランスのカナダ植民の基礎を築いた。しかし、この方面への航海は、いずれも東洋への航路を発見するに至らなかった。だが北アメリカの北東海岸、グリーンランド、ニューファンドランド、ハドソン湾一帯の地理がヨーロッパ人に明らかになっていった。

[飯塚一郎]

大航海時代の世界史的意義

コロン(コロンブス)の航海以後しばらくは、スペイン人の新大陸内部への関心はそれほど強いものではなく、むしろさらに西航する航路の発見に力が注がれたようである。バルボアはパナマ地峡を横断して太平洋岸に達したが、さらに南進する計画は挫折(ざせつ)した。この遺志を継いだフランシスコ・ピサロがインカ帝国を発見、これを征服し、それ以前すでにエルナン・コルテスがメキシコ中央部のアステカ王国を征服しており、スペインのこの方面での植民地収奪政策は進捗(しんちょく)した。このようにして近代植民地体制の確立は、世界史上に一つの重要な転機をもたらした。さらに、アフリカ南端を回航して東洋に達したポルトガルの築く世界貿易体制と、新大陸からさらに太平洋を西航してフィリピンに達したスペインの植民地体制との衝突は、モルッカ諸島のあたりで激しくなった。トルデシリャス条約は大西洋上の一線で両国の領有権を東西に分けただけであり、その裏側での両国の抗争は予測されなかったのであろうか。いずれにせよ、まずイベリアの2国による世界支配の体制の確立は、それに続くイギリス、オランダ、フランス、その他のヨーロッパ諸国が、絶対王政の形成を背景に、世界の富の収奪と権力の拡張を求めて、地球上のあらゆる地域を侵略していく糸口になる。この時代の経済的特徴の一つは、それまでのイタリア商人やイスラム商人による地中海貿易体制が崩壊して、新大陸からヨーロッパに送られる貴金属との交換によるヨーロッパ工業品の輸出、あるいは香料をはじめとする東洋物産の直接導入、アフリカ奴隷貿易と砂糖栽培が開始されたことであり、これらのことは宗教的には非キリスト教世界に対するキリスト教化と同時に進められた。そして近代資本主義の形成をヨーロッパに実現させる資本の原始的蓄積を促進させることになった。

[飯塚一郎]

『会田由他監修『大航海時代叢書』(第Ⅰ期11巻・別巻1・1965~70、第Ⅱ期全25巻・1979~92・岩波書店)』『山中謙二著『地理発見時代史』(1969・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「大航海時代」の意味・わかりやすい解説

大航海時代【だいこうかいじだい】

15世紀末以降,スペインやポルトガルを中心とする西欧諸国が探検・航海による〈地理上の発見〉を契機として,アメリカ大陸やアフリカ,アジアをはじめ各地に植民・掠奪・交易によって進出し,世界を一体化させた時代。コロンブスのアメリカ大陸到達(1492年),バスコ・ダ・ガマ喜望峰経由のインド航路発見(1498年)などに始まる。スペインとポルトガルは1494年のトルデシーリャス条約によって,新たに〈発見〉される土地の領土区分を定めた。インディアスと呼ばれた新大陸アメリカでは先住民を苛酷に使役し,金・銀を大量に収奪し(1545年ポトシ銀山発見),やがて労働力調達のためにアフリカ黒人を大西洋奴隷貿易により導入した。ここに,ヨーロッパ(織物・雑貨)→アフリカ(黒人奴隷)→新大陸(黄金)→ヨーロッパという〈三角貿易〉が始まり,西欧に〈商業革命〉をもたらすが,このころから西欧と東欧は〈中心と周辺〉の構造に分化していく。16世紀末からは英国,オランダ,フランスが海外進出の主役となり,17世紀半ばには英国とオランダが二大勢力として対立,ここに大航海時代は終わる。この時期は大規模な〈他者〉との遭遇の時代であり,人種・民族観が形成され,またキリスト教布教が世界化された画期でもあった。→近代世界システム
→関連項目移民海洋探検植民地大英帝国北西航路ヨーロッパ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大航海時代」の解説

大航海時代(だいこうかいじだい)

15~17世紀に,ヨーロッパ諸勢力がポルトガル人の西アフリカ航路探検を前提として,世界各地に大航海を行って拠点をつくり,資源の開発,通商網の組織化と支配などを通じて政治的優位に立った時代。かつては「地理上の発見の時代」と呼ばれた。1492年のコロンブスの大西洋横断航海を起点に三つの時期が区分できる。(1)16世紀前半,スペインとポルトガルが,トルデシリャス条約によって世界を分割し,アメリカ大陸を占拠して支配体制をつくりあげ,またポルトガルがゴアマラッカなどに基地をつくってインド洋通商圏に割り込み,香料貿易の独占を図った時期。(2)16世紀後半,イギリスがスペイン領アメリカや太平洋に侵入を開始し,資源をねらって私拿捕(しだほ)船の活動による略奪を行った時期。(3)1581年に独立したオランダが,カリブ海やブラジルに侵入を試み,アジアのポルトガルの重要拠点を奪取すると同時に,オーストラリアやオセアニアの探検を行った時期。17世紀前半がこれにあたる。17世紀後半以後は,スペイン,ポルトガルが脱落し,イギリス,フランス,オランダの制海権抗争の時代となるので,大航海時代とは区別して扱ったほうがよい。大航海時代の最大の特色は,大西洋世界が貿易圏として統合され,アジアを含む世界システム形成の基礎をつくったことにある。大航海時代の前提としては,地中海におけるイタリア港市の興隆とそれと平行した西ヨーロッパの商業の活性化,さらにはそれらに刺激を与えた,10世紀以後のインド洋‐南シナ海圏における商業と貿易の画期的な発展があった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大航海時代」の意味・わかりやすい解説

大航海時代
だいこうかいじだい
Age of Great Navigations

15~16世紀,ヨーロッパ人がインド航路航海やアメリカ大陸への到達 (いわゆる「発見」) をなした時代をいう。 15世紀後半,ポルトガルはアフリカ西海岸を探検し,ベルデ岬などを「発見」,1488年には B.ディアスが喜望峰に達した。次いで国王マヌエル1世 (幸運王) の命でバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り,アラビア人の水先案内人に導かれて 98年5月インド西岸のカリカットに達し,インド航路が開かれた。また C.コロンブスは P.トスカネリの地球球体説を信じて大西洋の西航を計画しスペイン女王イサベル1世の援助を得て 92年8月出発,10月 12日カリブ海諸島の一角に達した。彼は以後3回航海を行い,同地方を探検したが,この地をインドと信じた。しかし,引続くアメリゴ・ベスプッチや V.バルボアの中南米の探検によって,この地がヨーロッパに初めて知られた新大陸であることが確認され,アメリゴの名にちなみアメリカと命名された。北アメリカはイタリアのカボート (父)カボート (子)により探検され,東岸やニューファウンドランドが「発見」された。東インドに向った P.カブラルは漂着してブラジルに到達した。これらの探検の最後にスペインの F.マゼランが世界周航を行なって成功し (1519~22) ,地球の球体説を実証した。

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世界大百科事典 第2版 「大航海時代」の意味・わかりやすい解説

だいこうかいじだい【大航海時代】

1400年ころから1650年ころまでの,ヨーロッパ人による海外進出が始まり,新旧両大陸におけるその勢力範囲が確定した時期をさす。〈地理上の発見〉の時代とも呼ぶ。
[背景]
 1300年ころの西ヨーロッパはビザンティン帝国支配下の地中海東部地域,マムルーク朝支配下の西アジア,エジプトに対して金,銀,銅,奴隷などを輸出し,絹織物などの手工業製品,香料などの東方の産物を輸入していた。この地中海東部地域を起点として地中海を西に向けて横断し,ジブラルタル海峡から大西洋に出て,ヨーロッパ大陸の海岸に沿って北上し,バルト海に入ってロシアに到達する海上貿易ルートが西ヨーロッパの国際経済の大動脈であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大航海時代」の解説

大航海時代
だいこうかいじだい

15~17世紀,ヨーロッパ諸国民のアフリカ,アジア,アメリカ大陸への探検航海や征服・侵略活動が展開された時代。「大航海時代叢書」でいいだされたこの呼称には,「地理的発見の時代」などといわれた従来の西欧中心史観を止揚克服し,相対的価値観にたって東西の諸文化を比較研究しようという意図がこめられている。

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世界大百科事典内の大航海時代の言及

【航海】より

…とくに後者の方法では,航海を完了するためには航海の開始時期,すなわち季節を選択することが重要な要素であったが,十分なデータがないため,季節の選択をまちがえた例がかなりあったようである。
[大航海時代]
 新世界の幕あけが間近となってきた15世紀初め,ポルトガルのエンリケ航海王子は,航海技術の発展および未開地の探検を精力的に推し進めた。そのころ船は大型化し,耐航性が増し,舵は固定舵となり,またラテン帆の導入で,推進効率が向上しており,それ以前に比べより外洋に出られるようになっていた。…

【交通】より

…北海およびバルト海沿岸の交易都市が提携したハンザ同盟のにぎわいも,中世後期のイギリス経済の発展も,ともに航海技術の発達によるところが大きい。サンタ・マリア号によるコロンブスの新大陸発見(1492),バスコ・ダ・ガマによる喜望峰回りのインド洋横断(1497‐99),マゼラン一行による世界周航(1519‐22)によって,大型帆船は大航海時代の主役となった。この時代の航海はヨーロッパ各国の国策として推進され,海外貿易によって金銀貨幣の増大を図ろうとする重商主義政策を生んだ。…

【十字軍】より

…(3)末期十字軍 13世紀後半,占領地の全面的喪失期。(4)〈後の十字軍〉期 14~16世紀,東地中海からの後退期,〈大航海時代〉への転換期。また狭義には第3段階の1291年アッカー(アッコ)陥落をもって十字軍時代の終末と見なす説もある。…

【ラムージオ】より

…ラテン語,ギリシア語に精通し,クインティリアヌスやリウィウスの刊本をアルドゥス書店から刊行したほか,重要な旅行記の集大成である《航海と旅行Delle navigationi et viaggi》3巻(1550‐59)を刊行した。これは大航海時代に関する基本文献である。【清水 広一郎】。…

※「大航海時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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