カブール(読み)かぶーる(その他表記)Kābul

デジタル大辞泉 「カブール」の意味・読み・例文・類語

カブール(Camillo Benso conte di Cavour)

[1810~1861]イタリアの政治家。サルデーニャ王国の首相としてクリミア戦争に参加、ナポレオン3世との密約など、巧みな外交政策と、共和主義的なガリバルディらの運動の懐柔によってイタリア統一を促進したが、完全統一がなされる直前に急死。

カブール(Kabul)

アフガニスタンの首都。ヒンズークシ山脈の南麓にあり、インドと中央アジアを結ぶ交通の要地。人口、行政区254万(2006)。カーブル。

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精選版 日本国語大辞典 「カブール」の意味・読み・例文・類語

カブール

  1. ( Camillo Benso di Cavour カミロ=ベンソ=ディ━ ) イタリアの政治家。サルデーニャ王国の首相として王国の国際的地位を高め、イタリアの統一と復興に尽力した。(一八一〇‐六一

カブール

  1. ( Kabul )[ 異表記 ] カーブル アフガニスタンの首都。インダス川支流のカブール川に沿う盆地にあり、古代からの東西交通の要地。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール(アフガニスタン)
かぶーる
Kābul

アフガニスタンの首都。正しくは「カーブル」と発音する。同国東部の東経69度12分、北緯34度33分、標高1766メートルにある。人口約208万(2001推計)。住民はおもにアフガン人(パシュトゥン人)とタジク人で、ハザーラ人も流入しつつある。また全国各地からの出稼ぎも少なくない。市街地の真ん中をカブール川が東流し、南側が旧市街で、新市街は北と西に広がっている。政府関係諸機関、各種銀行、放送局、カブール大学以下各級学校、アフガニスタン国立美術館などがある。西方のヒンドゥー・クシ山麓(さんろく)のパグマーンは避暑地である。外国との陸上交通としては、東へはジャララバードを経てパキスタンペシャワルに、北へはサーラング・トンネルを経てウズベキスタンタジキスタントルクメニスタンなどに通ずる。北郊外に国際空港がある。工業では人絹、毛織物、干しぶどう製造、陶器などの工場のほか、機械修理、木工、石工を中心とするジャンガラクの総合工場が重要である。電力はおもにサロービーの水力発電所から、水道は市南部の深井戸から供給される。

[勝藤 猛]

歴史

カブール川上流域の地方が本来カーブルとよばれ、すでにバクトリア時代にはその一部を形成していた。7世紀末よりアラブの遠征軍が進攻しようとしたが、カーブル・シャーなる一族の抵抗のため、イスラム化は遅れた。9世紀の初めにこの支配者がイスラムに改宗し、10世紀、ガズナ朝の統治下にさらにイスラム化が加速された。これと前後して、カーブルの名は集落の名として使われるようになる。交易の要地を占め、インド方面の物産の集積地の役割を果たしていたが、その規模は小さく、都市としての発展が始まるのは、政治の中心地ガズナがティームール(在位1369~1405)の遠征によって破壊されてからである。16世紀には、バーブルの支配下に軍事、経済の中心として繁栄し、ムガル朝の貨幣の鋳造所も置かれた。18世紀後半にドゥラッーニー朝の首都となった。第一次、第二次アフガン戦争(1838~42、78~80)では戦場となった。現在までアフガニスタンの首都の地位を保っているが、1979年のソ連による軍事介入(ソ連軍は89年に撤退した)、およびその後の諸勢力の抗争による荒廃が著しく、96年にはイスラム原理主義勢力であるタリバンの支配下に置かれた。その後、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件を機に、同年10月よりアメリカ、イギリスなどによるアフガニスタン国内の過激派国際テロ組織アルカイダやタリバンに対する武力行使が行われ、カブールも空爆されるなど大きな打撃を受けた。同年11月には反タリバン勢力である北部同盟が進出、カブールを制圧。同年12月国連などの仲介により暫定行政機構が発足、戦禍は止むが治安が悪化した。02年1月には、安保理決議により治安維持を目的に設立された国際治安支援部隊(ISAF)が、カブールとその周辺地域に展開。同年6月暫定政権への移行が成立したが、治安の安定と復興が必要とされる。

[清水宏祐]


カブール(Camillo Benso conte di Cavour)
かぶーる
Camillo Benso conte di Cavour
(1810―1861)

イタリア近代の代表的政治家。トリノの侯爵ミケーレの次男に生まれ、軍人教育を受ける。自由主義思想の持ち主として左遷されたことで工兵将校を辞し、スイス、フランス、イギリスを旅行し、自由主義体制がイタリアに経済的革新と政治的復興とをもたらすものであると確信する。近代的な農業経営や銀行設立に従事し、1847年には政治日刊紙『リソルジメントIl Risorgimentoを発刊、政治活動を開始する。1848年にサルデーニャ王国の下院議員となり、1850年に農相兼商相、1851年に蔵相となる。その間、議会の中道左派のラッタッツィUrbano Rattazzi(1808―1873)と「コンヌービオ」(結婚)とよばれる議会内の提携を行い、極右と極左に対抗する多数派を形成した。1852年に首相となってからは、内政では教会権力に制限を加える自由主義的政策、またイギリスをモデルとする農・工業の振興政策、通商条約の締結に基づく自由貿易政策を展開した。外交では、サルデーニャ王国の国際的地位を高め、フランスのナポレオン3世の支持を得るために、1855年、議会の反対を押し切ってクリミア戦争(1853~1856)に派兵し、パリ講和会議でイタリアの政治状況を訴える機会を得た。1858年、南フランスのプロンビエールで、ナポレオン3世と対オーストリア秘密軍事同盟を結び(プロンビエールの密約)、翌1859年対オーストリア戦を開始し、フランス軍の支持でロンバルディアを解放した。だが、彼の意志に反して、ナポレオン3世がオーストリアと妥協した(ビラフランカの講和)ことに抗議して辞任する。その後、再度組閣し、ニースとサボイアのフランスへの割譲と引き換えに中部イタリアを併合した。続いてガリバルディの解放した両シチリア王国を併合し、1861年3月に成立したイタリア王国の初代首相となるが、その直後、6月6日に急死する。カブールは、民主共和制による統一を主張するマッツィーニに対抗して、サルデーニャ王国を中心とした君主制によるイタリア統一を、国際関係を利用することによって実現した。このことから彼は、ビスマルクとしばしば対比される19世紀ヨーロッパの傑出した政治家である。

[藤澤房俊]

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改訂新版 世界大百科事典 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール
Camillo Benso conte di Cavour
生没年:1810-61

イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相としてイタリアの統一を達成し,イタリア王国の初代首相となる。トリノの名門貴族の出。士官学校を卒業後16歳で工兵士官となる。しかしカブール家の開明的な雰囲気のなかで育った彼には,当時の軍隊の保守的な空気は肌に合わず,1831年職を辞し,翌年ベルチェリ地方で父親が所有する大農場の経営に着手。その後のカブールの生き方に大きな影響を与えたのは,幾度かの外国旅行のうちでも特にイギリスとフランスにおける工場制度,鉄道,自由主義との出会いであった。かくして彼は単に自己の管理する農場の生産方法を積極的に改良する有能な農業経営者にとどまらず,42年にはトリノで農業協会を設立し,さらには優れた事業家として広範な活動を展開した。例えば農産物や肥料の商業取引,割引銀行の創設,鉄道運河会社への投資といった具合である。つまり近代化という,当時のサルデーニャ王国がその存続・発展のためになさねばならなかった課題を,彼はまず民間人として実践した。ところが時代の要請は彼を政治の舞台へと駆り立てた。47年言論統制がある程度緩和されると,同志とともに日刊紙《リソルジメント》を創刊し,立憲君主制確立のために精力的に働いた。翌年3月に発布された憲法に基づいて,議員選挙が実施されると辛くも当選し,議員活動の第一歩を踏み出す。保守派による政界支配のなかで,当初少数派であった自由主義者カブールは,巧みな政治的手腕と狡猾な議会工作によって急速に発言力を強化していく。50年10月ダゼリオ内閣の農商務大臣として迎えられ,翌年大蔵大臣を兼任,52年11月にはついに首相の座につく。以後短期間を除いて61年6月の死に至るまで国政を左右する絶大な権力を行使した。

 その間内政面では自由貿易政策の採用,財政の健全化,貴族や教会が持っていた諸特権の制限ないし廃止,軍隊の整備,鉄道の建設,教育の普及といった王国近代化のための諸政策を次々と実施した。他方外交面では55年クリミア戦争への参加,58年ナポレオン3世とのプロンビエールの密約などによって,王国の国際的地位の向上と宿敵オーストリア打倒による王国拡張のための基礎固めを着実に果たしていった。その結果59年7月のロンバルディア併合を皮切りに,60年3月には中部イタリア,10月ガリバルディの千人隊の活躍で平定された南部イタリアの併合を行い,61年3月ビットリオ・エマヌエレ2世のもとにイタリア王国を実現させた。かくして民族の独立・統一をスローガンとして種々の方向性をはらんで展開されたリソルジメント運動は,サルデーニャ王国による〈全国征服〉という形で終結をみた。カブール自身は新生イタリアが成立して3ヵ月もたたない間に急逝したが,自由貿易を政策の基調として〈農工の調和のとれた〉国民経済の発展を図るという彼の近代化構想は,87年の保護主義的関税改革に至るまで,イタリア近代化の基本路線を支えた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール
Cavour, Camillo Benso

[生]1810.8.10. トリノ
[没]1861.6.6. トリノ
イタリアの政治家。イタリア王国の第1代首相。ピエモンテの名門貴族出身。トリノ士官学校を卒業したが,自由主義思想をいだいて 1831年軍役を退く。フランスとイギリスへの旅に出て自由主義経済と議会主義に深い確信をもって帰国し,広大な領地に資本主義的大農場経営を導入して農業改革に努め,工業化の課題に取組むため銀行設立,鉄道敷設の事業を熱心に進めた。 47年"Il Risorgimento"紙を創刊して政治的ならびに経済的な自由主義の主張を掲げ,48年新たに開設されたサルジニア王国議会の議員となり政治活動に足を踏入れた。中道右派の立場に立って M.アゼリオ内閣で 50年農商工相,51年財務相をつとめ,中道左派の指導者 U.ラタッツィと連合を結び,52年みずから首相の地位を得た。以後 59年7月まで産業振興策を積極的に推進し,自由貿易主義の見地に立つ低関税政策と英仏両国との通商拡大,金融・信用制度の充実などを果した。その自由主義的政策はイタリア各国の亡命者をひきつけて,ピエモンテをリソルジメント運動の中心地とする効果をもたらした。外交政策では,1858年ナポレオン3世とプロンビエルの密約を結んでオーストリアに対する独立戦争の準備を進めた。 59年戦端が開かれて勝利の見通しが強まったとき,突如としてビラフランカの和議がなされたため,これに抗議して同年7月首相を辞任した。しかし 60年1月に復帰して,3月中部イタリアの併合に成功,続いてシチリアとナポリに遠征した G.ガリバルディと対抗しつつ 10月に南イタリアを併合,イタリアの統一と独立に貢献した。 61年3月イタリア王国の成立が宣言されて初代首相に任じられたが,山積する課題を残して6月に急死した。

カブール
Kabul

アフガニスタンの首都で,同名州の州都。険しい山地の谷間を流れるカブール川に臨み,標高 1800mに位置する。国内大都市と幹線道路で結ばれるほか,北はトルクメニスタンなど,東はパキスタンと道路が通じている。 3000年以上の歴史をもつ古い都市で,インドの聖典『リグ・ベーダ』にも言及され,プトレマイオスの著書にも記述がある。しかし,その所在が広く知られるよりはるか以前から,北はヒンドゥークシ山脈を越えて,南はガズニーやガルデーズを経由して,東はカイバー峠を越えて,パキスタンやインドからこの地にいたる経路を支配する町であった。 13世紀にはチンギス・ハンの侵入によって大きな被害を受けたが,16世紀にはムガル帝国カブール県の県都となって,1738年にペルシアのナーディル・シャーが占領するまで続いた。アフガニスタンの首都となったのは 1773年。第1次アフガン戦争中はイギリス駐留軍大虐殺の場となった。 1979年のアフガニスタン紛争以後,旧ソ連軍が駐留し反政府ゲリラの攻撃の的となり,大きな損害を受けた。歴史的記念物が多く,また多くの美しい庭園があり,旧市街の西端に近いバーブル庭園にはムガル帝国創始者であるバーブル帝の墓があり,行楽地としてよく知られる。また,市の北 80kmにあるダーマン山脈の渓谷には前イスラム時代の文化の中心地で,アレクサンドリア・カピサなどの町跡があり,古代史上重要なところである。カブール美術館はシルクロード遺物,ガンダーラ美術の収集で知られる。食品加工,皮革,織物,家具製造のほか,大理石製品などの工業がある。市の北部にはカブール国際空港がある。人口 293万8300(2009)。

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百科事典マイペディア 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール

アフガニスタンの首都。ヒンドゥークシ山脈の南麓,東流するカブール川に沿う盆地にあり,標高約1800m。商業が活発。皮革・家具・ガラス工場がある。古来西アジアとインドを結ぶ交通の要地で,アレクサンドロス大王の東征以来たびたび侵入路となった。ムガル帝国発祥の地。住民はアフガニスタン国内の全民族から成る。共通語はペルシア語。294万人(2009)。
→関連項目アフガニスタンバーミヤーン

カブール

イタリアの政治家。1852年以降サルデーニャ王国首相として,自由主義政治を行った。内政では社会の近代化に努め,外交では英仏と接近してオーストリアと対抗した。リソルジメントを積極的に推し進め,イタリア統一戦争を勝利に導き,1861年統一国家の成立と同時に初代首相となったが,国内体制の一体化達成を目前に死去した。
→関連項目サルデーニャ王国タリバーンピエモンテ[州]

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旺文社世界史事典 三訂版 「カブール」の解説

カブール
Kabul

アフガニスタン共和国の首都
盆地の中央にあり,インダス川の支流に沿う。東はインド,北は中央アジア,西はイランに通じる商業交通の要地。このためアレクサンドロス大王・チンギス=ハン・ティムールらの侵入を受けた。ガズナ朝・アフガン系諸王朝の都となり,イスラーム化が進行した。

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世界大百科事典(旧版)内のカブールの言及

【イタリア】より

…正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana面積=30万1225km2人口(1996)=5746万0274人首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)主要言語=イタリア語通貨=リラLira長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。
【国土と住民】
 現在のイタリア共和国の範囲がイタリアとして理解されるようになるのは,近代になってこの範囲においてトスカナ語が共用語として用いられるようになってからのことである。…

【サボイア家】より

…【柴野 均】。。…

【リソルジメント】より

…【北原 敦】。。…

※「カブール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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