西アフリカ、赤道直下のギニア湾上に浮かぶ、サントメ島およびプリンシペ島からなる国。正称はサントメ・プリンシペ民主共和国。長くポルトガルの植民地であったが、1975年7月12日に独立した。両島はいずれも火山島で、面積はサントメ島が857平方キロメートル、プリンシペ島が107平方キロメートル、国の総面積は964平方キロメートルで、アフリカではセイシェルに次いで小さい。人口11万6998(1991センサス)、15万1400(2001推計)。首都はサントメ。気候は赤道直下に位置するので、年じゅう高温多湿である。年降水量は、貿易風の影響を受けて、風上にあたる南斜面では5000ミリメートル以上にも達するのに対して、風下側の北斜面では1000ミリメートル以下となっている。
1471年にポルトガル人が到達するまでは無人島であったが、83年からポルトガル本国からの流刑者や奴隷としてのアフリカ人の入植が始まった。当時は西インド諸島に先だってサトウキビのプランテーション農業が試みられ、これが16世紀前半までこの島の産業の中心となった。しかしまもなくその中心が西インド諸島に移り、かわってこの島はアンゴラからの奴隷貿易の中継基地となった。19世紀に入り奴隷貿易が廃止されると、カカオやコーヒーのプランテーション農業が始められ、現在ではこれがこの国の主産業となっている。ちなみに、この国の輸出額の85%はカカオが占めている。住民はこうした歴史を反映して、ポルトガル人との混血クレオール、ギニアからの入植奴隷の子孫フォロス、アンゴラからの奴隷の子孫アンゴラレスなどが混住している。人口的には大半がアンゴラレスによって占められている。
政治的には、かつてはポルトガルからの独立運動を指導したサントメ・プリンシペ解放運動(MLSTP)の1党のみで、同党の書記長であったダ・コスタが初代大統領となった。ダ・コスタは社会主義国への傾斜を強め、キューバ、ソ連と緊密な関係にあった。しかし、1990年以後複数政党制を認めるなど民主化が進展し、91年の大統領選挙で元首相のミゲル・トロボアダが大統領に就任した。96年再選。2001年7月の大統領選挙では、3選が憲法で禁止されているため、トロボアダは出馬せず、元外相フレディーク・デメネゼスが大統領に当選した。
主要都市はサントメ島のサントメ、プリンシペ島のサント・アントニオで、大多数の人々の宗教はカトリックである。公用語はポルトガル語。近年は教育にも力が入れられており、初等教育就学率は90%に達する。交通は空路が中心で、アフリカ大陸とはアンゴラ、ガボンと結ばれている。
[端 信行]
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