改訂新版 世界大百科事典 「アーンドラ美術」の意味・わかりやすい解説
アーンドラ美術 (アーンドラびじゅつ)
サータバーハナ朝(アーンドラ族)が関与した美術を指すこともあるが,一般的には南インド東海岸のクリシュナ,ゴーダーバリー両川の下流域のアーンドラĀndhra地方(現在のアーンドラ・プラデーシュ州の一部)の美術の総称として用いられている。この地方の造形活動は1世紀ごろ始まったと考えるのが有力で,北西デカンを支配していたサータバーハナ朝がこの地方に進出する2世紀前期から急速に仏教美術が興隆した。その遺跡としては,アマラーバティーを筆頭に,ジャッガヤペータJaggayyapeta,ゴーリ,バッティプロール,ガンタシャーラなどが知られ,いずれもクリシュナー川に沿って点在している。当地のストゥーパは,円形基壇の四方に方形の突出部があり,その上に5本のアーヤカ柱を立てるという独特の形式をとり,基壇を囲む欄楯の四方に入口を開くが門はない。いずれも基礎が残るのみで,ストゥーパを図示した浮彫から上述の構造を推測することができる。石材はやや緑色を帯びた乳白色の石灰石を用い,欄楯の表裏のみならず,基壇の側面や覆鉢をおおう石板にも浮彫をほどこしている。余白を残さず画面をさまざまな形象で埋めつくし,とくに柔らかでしなやかな人体表現に特色がある。後期になると仏像をつくる一方で,仏陀を象徴によって代用する仏像不表現の伝統も永続し,仏像に対する二つの考え方が併存していたことがわかる。ゴーダーバリー川にほど近いグントゥパッリにはストゥーパを安置した円堂と小さな前室とからなる石窟があり,その簡素な形式から前2世紀ごろの最初期の仏教石窟と考える説もあるが,紀元後に下る可能性もある。なお当地から出土した丸彫の仏像群の作風は,アマラーバティーの末期のものに近い。
サータバーハナ朝は3世紀に入ると衰退し,アーンドラ地方は3世紀の第2四半期から約1世紀続くイクシュバーク朝の支配するところとなった。この王朝の庇護をうけてナーガールジュナコンダに壮大な仏教伽藍が造営された。その技法・作風はアマラーバティーのそれに酷似しているが,やや洗練さを失っている。イクシュバーク朝の滅亡後は,パッラバ朝やビシュヌクンディンViṣṇukuṇḍin朝の支配下にはいり,このころからヒンドゥー教美術が優勢となり,6世紀にビジャヤワダ付近にヒンドゥー教石窟がつくられた。パッラバ朝を攻撃したチャールキヤ朝はアーンドラ地方を手中にし,そこに東チャールキヤ朝を建てた。8世紀のアーランプルの石積寺院群は,チャールキヤ様式を継承している。7~8世紀にはおそらくオリッサから密教が伝えられ,オリッサに近い北東部のサーリフンダムやさらにはアマラーバティー周辺でも密教尊像が出土している。
→サータバーハナ朝
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報