改訂新版 世界大百科事典 「シフィエントホフスキ」の意味・わかりやすい解説
シフィエントホフスキ
Aleksander Świętochowski
生没年:1849-1938
ポーランドのポジティビズム運動の指導的な人物で,一月蜂起の敗北後,武装蜂起によって独立を回復しようとする考え方を徹底して批判した。ポドラシェ地方の貧しいシュラフタ(貴族)の家庭に生まれ,1866-69年にワルシャワ中央学校(現,ワルシャワ大学)で学んだ。卒業後は《週刊評論》において鋭い旧世代批判の論陣を張り,〈新世代の首領〉として一躍名声を博した。地道な社会の〈底辺における労働〉こそポーランド復興のための最善の方法であるとする彼の主張は,在学中に学んだ西欧の実証主義哲学の進化論の知識によって裏付けられていた。74-75年にライプチヒ大学に留学して博士号を取得し,帰国後にヤギエウォ大学で助教授の地位を得ようと努力するが成功しなかった。76年に再び《週刊評論》の仕事に戻り,78年からは《ノビニ(ニュース)》紙の編集を担当した。81年には自ら《プラウダ(真理)》紙を創刊し,〈リベルム・ベト(自由な拒否権)〉と題したコラムで健筆をふるった。しかし90年代になってロシア政府の弾圧策が強化されると,彼の関心は非合法活動に向けられるようになり,1900年に《プラウダ》紙を売却してからは,ルブリンの農民やウッチの労働者に対する非合法の啓蒙活動に専念するようになった。また1905年のロシア革命では政治活動にも従事しており,07年のロシアの第2回ドゥーマ(国会)には自ら知識人を集めて1905年に結成した進歩党を基盤に立候補した。しかし大衆組織をもたない政党は無力であった。革命後は再び啓蒙活動に戻り,05年に自らワルシャワで組織した〈ポーランド文化協会〉の機関誌《ポーランド文化》(1908-13)や《ヒューマニスト》(1913-15)の編集に従事した。18年にポーランドがロシアから独立して後はもはや彼の活動の場は残されておらず,もっぱら著述に専念した。その成果が《ポーランド農民の歴史》2巻(1925,28)と《現代の系譜》(1936)である。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報