1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャイン(?―1669)が起こした蜂起(ほうき)。この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つがるいっとうし)』)が殺された。松前(まつまえ)藩への攻撃も企てたが、国縫(くんぬい)(長万部(おしゃまんべ)町)で防ぎ止められ退いた。この戦いの前段には、松前藩への接近策をとるオニビシ(ハエを拠点とするハエクルの首長)との抗争があった。この抗争のなかでオニビシが殺され、ハエクル一族は松前藩に援助要請の使者を送り、援助を求めたが成功せず、使者も帰路に病死した。それが、松前藩による毒殺であるとの風説となって対日本人蜂起の直接のきっかけとなった。しかし、より重要な背景は松前藩の蝦夷交易体制の強化であった。松前藩はアイヌの松前城下、本州方面への渡航を抑え、交易の主導権を蝦夷地へ赴く日本人側に確保しようとしてきた。そのため、干鮭(からさけ)5束(100尾)=米2斗の交換比率が、米7~8升に下がるという状況を引き起こした。また松前藩の砂金取りが河川を荒らすことなどへの不満も前々から積もっており、不満は大きく広範であった。この戦いは、アイヌが日本人の主導権のもとに完全に屈服するかどうかという性格の戦いであった。幕府もこれを重視し、津軽藩兵を派遣した(実戦には不参加)。
戦いは、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、ツクナイ(償いの宝物など)の提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。しかし和議の約束は偽りで、酒宴に酔ったシャクシャインらは松前藩勢に囲まれ殺害され、シャクシャインのチャシ(砦(とりで))も攻め落とされて、この戦いは一段落する。しかし、その後も松前藩は1672年まで出兵を繰り返し、アイヌの動向を点検し続けた。この結果、首長の競合によるアイヌの政治勢力形成の可能性は失われ、同時に蝦夷地における松前藩、日本人側の主導権が確立していったのである。
[田端 宏]
『「寛文拾年狄蜂起集書」(『日本庶民生活史料集成 第4巻』所収・1969・三一書房)』
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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