松前氏
まつまえうじ
松前藩主。出自については諸説があるが、松前藩側の記録では、若狭(わかさ)後瀬山(のちせやま)城主武田信賢(のぶかた)の子武田信広(のぶひろ)を祖とする。信広は1451年(宝徳3)国を出て関東足利(あしかが)に下り、さらに陸奥(むつ)(青森県)田名部(たなぶ)の蠣崎(かきざき)に拠(よ)り、54年(享徳3)蝦夷地(えぞち)に渡って、上ノ国(かみのくに)花沢館主(はなざわたてぬし)蠣崎季繁(すえしげ)の客となり、コシャマインの蜂起(ほうき)鎮定を契機に蠣崎家を継いだことになっている。信広以降、第2世光広(みつひろ)、3世義広(よしひろ)、4世季広(すえひろ)の代まで蠣崎を姓とし、第5世慶広(よしひろ)のとき豊臣(とよとみ)氏、徳川氏に従い松前と改姓して一藩を形成した。松前宗家は、慶広のあと盛広(もりひろ)(松前家の記録では盛広を第6世とするが、幕府より公認されたのは公広(きんひろ))、公広、氏広(うじひろ)、高広(たかひろ)、矩広(のりひろ)、邦広(くにひろ)、資広(すけひろ)、道広(みちひろ)、章広(あきひろ)が襲封した。章広治世の1807年(文化4)~21年(文政4)の14年間陸奥国伊達(だて)郡梁川(やながわ)(福島県伊達市)への移封により梁川藩主となったが、章広治世中に復領になり、ついで良広(よしひろ)、昌広(まさひろ)、崇広(たかひろ)、徳広(のりひろ)、修広(ながひろ)と18世(藩主としては14代)続いて、廃藩置県(1871)を迎えた。松前氏は、大名知行(ちぎょう)権が蝦夷地交易の独占権という特殊な性格から、梁川移封時や特殊な領域形態をとった幕末期を除いて石高はなく、したがって、その家格も石高(こくだか)と結合した形では確定されにくく、1634年(寛永11)2代藩主公広が1万石の人積りをもって将軍家光(いえみつ)の上洛供奉(じょうらくぐぶ)を勤めているものの、当初は交代寄合(よりあい)として遇され、1719年(享保4)に初めて正式に1万石格となった。しかし、その後梁川への移封に伴い9000石となり、復領後は、格付けのないまま数年を経たうえで、1831年(天保2)ふたたび1万石格となった。その後1849年(嘉永2)城主に列するとともに、55年(安政2)旧領の大部分と引き換えに陸奥国伊達郡梁川、出羽(でわ)国村山郡東根(ひがしね)(山形県)に計3万石を領して、初めて3万石の家格となったが、1868年(明治1)11月、五稜郭(ごりょうかく)を占拠した旧幕府軍の攻撃により福山城が落城、藩主徳広は西在の熊石(くまいし)(八雲町)より海路津軽に逃れ、弘前(ひろさき)で没した。翌69年修広が家督を継ぎ、新政府軍とともに領地に渡り福山城を奪回し、同年6月版籍を奉還し、館藩知事に任じられた。71年(明治4)廃藩置県により東京に移転、84年華族となり子爵を授けられた。なお、同族には旗本になった者もいる。
[榎森 進]
『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』▽『金井圓・村井益男編『新編物語藩史 第1巻』(1975・新人物往来社)』▽『『松前町史 通説編 第1巻 上』(1984・松前町)』
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松前氏 (まつまえうじ)
近世大名。松前藩主。出自については諸説があるが,松前家の記録では,若狭後瀬山城主武田信賢の子信広が1451年(宝徳3)関東足利を経て陸奥田名部の蠣崎(かきざき)に下り,54年(享徳3)蝦夷地に渡って上ノ国花沢館主蠣崎季繁の客となり,コシャマインの戦鎮定を契機に蠣崎氏を継いだことになっている。信広以降4世季広まで蠣崎を姓とし,5世慶広のとき豊臣,徳川氏に従い,松前と改姓して松前藩を形成した。慶広のあと公広,氏広,高広,矩広,邦広,資広,道広,章広が襲封し,章広治世の1807年(文化4)から21年(文政4)まで陸奥国伊達郡梁川へ移封されたが,章広治世中に復領し,ついで良広,昌広,崇広,徳広,修広と続いて廃藩置県を迎えた。松前氏は大名知行権が蝦夷地交易の独占権という特殊な性格から,梁川移封時や特殊な領域形態をとった幕末期を除いて石高はなく,1719年(享保4)にようやく1万石格となった。その後,梁川移封時に9000石となり,復領後は格付のないまま数年を経た上で1831年(天保2)再び1万石格となったが,49年(嘉永2)城主に列し,55年(安政2)旧領の大部分と引換えに陸奥国伊達郡梁川,出羽国村山郡東根に計3万石を領して初めて3万石の大名となった。維新後,子爵。
執筆者:榎森 進
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松前氏【まつまえうじ】
近世大名。蝦夷松前藩主。14世紀以降北海道南海岸に来住した和人は館主(たてぬし)という小領主となり,花沢館主蠣崎(かきざき)氏の客将武田信広は,1457年コシャマインの戦を鎮圧して蠣崎氏を継ぎ,和人館主を統一。5代慶広が豊臣氏・徳川氏より蝦夷地支配を安堵され,松前と改姓,松前藩主となる。
→関連項目和人地
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松前氏
まつまえうじ
本姓は清和源氏。源義光の三男源義清より出たという。9世の孫武田重広は若狭国遠敷郡に移り,曾孫武田信広のとき,15世紀中葉,松前に移り,松前氏を称したという。代々この地に住んで蝦夷に対応した。松前慶広のとき,徳川家康から安堵され,慶長5 (1600) 年福山城を築いて大名格となり,慶長9 (1604) 年蝦夷地での交易独占の朱印状を受けた。享保4 (1719) 年松前矩広のとき,万石以上格となったが,その後,江戸幕府は北辺警備のため直轄領としたため,文化4 (1807) 年陸奥梁川 9000石に封じられた。文政4 (1821) 年松前に再び転封されたが,安政2 (1855) 年箱館開港に伴い,再び梁川に移され,明治にいたって子爵に叙せられた。 (→松前藩 )
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松前氏
まつまえし
近世,北海道渡島(おしま)半島南端部を領した大名家。徳川家康の命により蠣崎慶広(かきざきよしひろ)が1599年(慶長4)松前氏に改姓。1604年家康黒印状で対アイヌ交易独占権を保証される。矩広(のりひろ)の代にシャクシャインの戦がおこる。無高の大名であったがほぼ1万石格で,幕末に3万石となる。1807~21年(文化4~文政4)は陸奥国梁川(やながわ)に転封。藩主崇広(たかひろ)は64年(元治元)老中となる。明治維新後,修広(ながひろ)のとき子爵。
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世界大百科事典(旧版)内の松前氏の言及
【異域・異国】より
…明・清国への朝貢国であったが,石高制の貫徹,薩摩藩士の常駐,キリシタン禁制,薩摩藩への貢納義務などは,幕府と大名[島津氏]の支配を示す側面であった。北の松前口からは[松前氏]が[蝦夷地]のアイヌ人社会に対して産物や労働力を編成したが,その関係は異域に対するものであった。異域が,琉球の場合薩摩藩の軍事力に制圧され,アイヌ社会の場合シャクシャインの戦で敗北したにもかかわらず,完全に内国化されなかったのは,日本の近世国家の側の利用の意図もあったが,基礎的な条件は異域自体の政治的文化的自立力が,日本への組込みの力を跳ね返していたからである。…
【蠣崎氏】より
…中世の北海道渡島(おしま)半島の和人の豪族。江戸時代の松前藩主[松前氏]の祖。もと下北半島田名部(たなぶ)の蠣崎(現,川内町)におり,15世紀の中ころに渡道したものという。…
【参勤交代】より
…42年には,従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代,関東の譜代大名に2月,8月の半年交代,さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ,ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。もっとも,対馬の宗氏は3年1勤,蝦夷地の松前氏は5年1勤,水戸徳川家や役付の大名は定府(じようふ)とするなど,若干の例外もみられる。その翌年には,将軍への大名の拝謁順序が定められ,86年(貞享3)以降は,表礼衆,那須衆,美濃衆,三河衆など旗本30余家にも隔年参勤が義務づけられた([交代寄合])。…
【松前藩】より
…松前([福山])を本拠に[蝦夷地](えぞち)を領有した外様小藩。藩主は[松前氏]。室町中期から戦国時代に蝦夷地の南端部に和人政権を確立した蠣崎(かきざき)氏が,第5世慶広のとき,1593年(文禄2)豊臣秀吉より,ついで1604年(慶長9)徳川家康より蝦夷地交易の独占権を公認されて一藩を形成した。…
【和人地】より
…和人地以北の地を〈[蝦夷地]〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には[松前氏]のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した[異域・異国]との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。したがって近世にあっては,和人地までが幕藩制国家の領域,蝦夷地は異域・化外の地という性格を与えられていたことになるが,松前氏には石高がなかったことから,和人地内の村には村高がなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」