スカンデルベグ(その他表記)Gjergi Kastoriot Skënderbeg

改訂新版 世界大百科事典 「スカンデルベグ」の意味・わかりやすい解説

スカンデルベグ
Gjergi Kastoriot Skënderbeg
生没年:1404ころ-68

中世アルバニアの民族的英雄。北アルバニアの豪族ギオン・カストリオトの第4子として生まれ,1430年ころ,父がオスマン帝国の宗主権を受け入れたため,当時の慣習にのっとって兄たちとともにオスマン宮廷に人質として預けられ,そこでイスラムに改宗し,侍従として仕えた。勇気があり武勇に優れていたところから,アレクサンドロス大王の名にちなんで,スカンデルの名を与えられ,軍司令官(ベグ)として従軍した。37年ころ,父の領地ティマール(軍事封土)を与えられ,シパーヒー(騎士)として故郷に戻った。43年,オスマン帝国軍がハンガリーの民族的英雄フニャディヤーノシュとの抗争に忙殺されている間をついて民族独立を求めて反乱を起こし,キリスト教徒に再改宗して北アルバニアを統一した。以後25年の間,ナポリ王国,ローマ教皇ベネチアなどの援助も得て,オスマン帝国軍から国土を守った。68年に彼が病没すると,アルバニアは再びオスマン帝国に併合されたが,彼の抵抗は民衆の間に語り伝えられた。19世紀以後,オスマン帝国からの独立を求めて民族思想が高まり,スカンデルベグはアルバニアの民族的英雄として叙事詩などの主人公となった。とくにアルバニア国民文学の創始者といわれるナイム・フラシャリの《スカンデルベグ物語》(1896)やファンノリの《スカンデルベグの歴史》(1921)はアルバニア人統合に大きな役割を果たした。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スカンデルベグ」の解説

スカンデルベグ
Skanderbeg (本名 Gjergi Kastoriot)

1404~68

アルバニアの民族英雄。アルバニア北部の豪族の家に生まれる。オスマン軍のバルカン進出に伴い,父がスルタンの宗主権を受け入れたためオスマン朝の宮廷で教育を受け,ムスリムに改宗して宮廷に仕えた。アレクサンドロス大王にちなんで,スカンデルベグの名を与えられた。しかし,シパーヒー(軍事封土の保有者)として故郷に戻ると,キリスト教に再改宗。1443年,オスマン朝がハンガリーとの抗争に追われている間隙をつき,アルバニア中部の町クルヤを拠点とし,独立を求めて反乱を起こした。オスマン軍に対して果敢な抵抗を試み,反乱は20年にもわたって続いた。68年にマラリヤで病死すると,アルバニアはオスマン帝国の支配下に置かれた。スカンデルベグの活動は叙事詩の形で民衆の間に語り伝えられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スカンデルベグ」の意味・わかりやすい解説

スカンデルベグ
Skanderbeg (Skënderbeu); Gjergj Kastrioti

[生]1405. 北アルバニア
[没]1468.1.17. レゼ
アルバニアの支配者,民族的英雄。本名ギェルギ・カストリオティ。エマティア侯の子。幼くしてオスマン帝国の人質となり,イスラム教に改宗。エディルネで教育を受け,スルタン,ムラト2世からアレクサンドロス3世 (大王) にちなんでイスカンデルの名とベイの称号を贈られた。スカンデルベグの名はこれによる。 1443年オスマン帝国軍がニシュの戦いでハンガリーのフニャディ・ヤーノシュに敗れたとき,アルバニアに逃れ,キリスト教に帰依。翌年アルバニアの諸侯の連盟を組織して,44~46年 13回のオスマン帝国軍の来襲を撃退。西ヨーロッパ世界に勇名をとどろかせ,ローマ教皇カリクスツス3世によって教皇庁大将軍に任命された。 63年ベネチアと同盟締結。その死後アルバニアはまもなくオスマン帝国の支配に屈し (1478) ,20世紀まで独立を回復できなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スカンデルベグ」の意味・わかりやすい解説

スカンデルベグ
すかんでるべぐ
Gjergj Kastrioti Skanderbeg
(1403―1468)

アルバニア史上の民族英雄。カニナのカストリオティ家の出身で、母はセルビア人有力者の娘。父の居城がトルコに占領され、11歳で人質としてコンスタンティノープル(現イスタンブール)に送られ、イスラム教徒になり、トルコ名イスカンデルを与えられた。アルバニア人たちはのちに彼にベイの称号をつけ、音を多少変えてスカンデルベグとよんだ。サンジャクのトルコ軍に配属され、ベネチアやセルビアと戦ったが、1443年アルバニア人の対トルコ蜂起(ほうき)の報に接し、民族の自由のために戦う決意をした。キリスト教に改宗し、アルバニアの有力首長の娘を妻に迎え、首長たちを結集してトルコと戦った。モンテネグロ、ベネチア、ナポリ、ローマ教皇も彼を支援した。トルコ皇帝ムハンマド2世は1466年自ら大軍を率いてスカンデルベグを攻撃、劣勢の後者は支援を求めにローマを訪れ、帰国途上ベネチア領アレッシオで死去した。

[木戸 蓊]

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世界大百科事典(旧版)内のスカンデルベグの言及

【アルバニア】より


[オスマン帝国の支配]
 14世紀の後半からバルカン半島へオスマン・トルコが侵入し,アルバニアの封建諸侯も次々に降伏して,主要都市にはオスマン帝国の守備隊が置かれた。15世紀の前半,中部アルバニアの出身でオスマン帝国軍人として有名であったスカンデルベグがオスマンに対するアルバニア独立の旗をかかげ,クルヤKrujëの城塞を拠点として戦った。1443‐68年,オスマン帝国は毎年のように大軍を派遣したが,そのたびに敗北し,やっとスカンデルベグの死(1468)後,封建諸侯の内紛に乗じて,再征服に成功した。…

※「スカンデルベグ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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