日本大百科全書(ニッポニカ) 「スコフィールド」の意味・わかりやすい解説
スコフィールド
すこふぃーるど
John Scofield
(1951― )
アメリカのジャズ・ギター奏者。オハイオ州デイトンに生まれ、生後まもなく一家はコネティカット州ウィルトンに移り住む。11歳でギターを手にし、独学でロックを演奏するがしだいにB・B・キングなどブルースに興味をもつ。15歳で教師についてギターを本格的に習い始め、ウェス・モンゴメリー、タル・ファーロウTal Farlow(1921―1998)、バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、ジム・ホールといったジャズ・ギター奏者のアルバムに親しむようになる。同時にギター奏者に限らず、ジャズの巨人といわれたマイルス・デービス、ジョン・コルトレーンらのアルバムも徹底的に研究する。1970年、ボストンのバークリー音楽院に入学、ビブラホーン奏者のゲーリー・バートンGary Burton(1943― )、ベース奏者のスティーブ・スワロー Steve Swallow(1940― )、サックス奏者のデーブ・リーブマンDave Liebman(1946― )らと出会う。また3年に及ぶバークリー時代に、ホール、ジョージ・ベンソン、パット・マルティーノPat Martino(1944―2021)といったギター奏者の演奏を聴いて研究した。
1974年、バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンとトランペット奏者チェット・ベーカーの再会コンサートにサイドマンとして参加、これが初レコーディングとなる。その後ドラム奏者ビリー・コブハムBilly Cobham(1946― )のバンドに1976年まで参加する。1977年は彼にとって飛躍の年で、ベース奏者チャールズ・ミンガスのサイドマンとしてレコーディングに参加。同年(昭和52)ニューヨークを活動拠点としていたトランペット奏者日野皓正(てるまさ)のサイドマンとして来日し、このときトリオ・レコードに日野のバンドのサイドマンを借りて初リーダー作『ジョン・スコフィールド』を吹き込む。そして2作目『ライブ』Live(1977)を今度は自分のバンドでドイツのレーベル、エンヤに吹き込み、この作品で独自の個性をもったギター奏者として多くのファンの支持を得る。1970年代末から1980年代初頭にかけて、デーブ・リーブマン・クインテットの一員となるが、この間もスワロー、ドラム奏者のアダム・ナスバウムAdam Nussbaum(1955― )をサイドマンとするギター・トリオによる活動を継続、ギター奏者としての名声を高める。1982年末からマイルスのグループの一員となり1985年まで在団する。同バンド在団中の1984年からグラマビジョン・レーベルにリーダー作を録音、1985年の『スティル・ウォーム』あたりから、それまでのやや内省的なスタイルからハード・ファンク路線へと転換を図る。1987年、ドラム奏者デニス・チェンバーズDennis Chambers(1959― )を含む自らのバンドを率いて来日しツアーを行うが、このときの模様をレコーディングしたアルバム『コンプリート・ピック・ヒッツ・ライブ』(1987)はこの時期の代表作。
1989年ブルーノート・レーベルに移籍し、アコースティック・ギターを使用したギター・トリオにテナー・サックス奏者ジョー・ロバーノJoe Lovano(1952― )を加え、新たなサウンドを追求。1993年にはギター・シーンをスコフィールドと二分する人気ギタリスト、パット・メセニーと共演する。1996年バーブ・レーベルに移籍第一弾として自ら作・編曲した『クワイエット』を吹き込む。これはフレンチ・ホルン、バス・クラリネットを含む7管編成をバックに、アコースティック・ギターを演奏するきわめて意欲的な作品であった。1997年、オルガン・トリオ、メデスキ・マーチン&ウッドをサイドに従え『ア・ゴー・ゴー』を、1999年にはアルバム『バンプ』を録音、ニューヨーク若手ミュージシャンたちのヒーロー的位置にたつ。
彼のギター演奏はうねうねとフレーズが波打つ個性的なもので、一度聞いたらだれでも演奏者を特定できるほど特徴が鮮明である。エレクトリック操作により音色の操作の幅が広がったため、1970年代以降ジャズ・シーンの中心に踊り出たギターのなかでも、スコフィールドはその多彩な活動で真に独創的なミュージシャンとしての地位を確立している。
[後藤雅洋]