アメリカの劇作家。10月17日、ニューヨークのマンハッタンに生まれ、高校卒業後さまざまな職を転々としたのちミシガン大学に入学。在学中に書いた戯曲で賞を得て劇作家としての道を歩む。卒業後しばらくラジオドラマを手がけ、実験的作品を発表する。1947年、実業界の非人間性と良心の問題、父と子の対立を扱った『みんな我が子』でニューヨーク劇評家賞を受賞する。1949年に初演された『セールスマンの死』によって、ニューヨーク劇評家賞、ピュリッツァー賞をはじめ、そのほかおびただしい賞を受け、一躍世界的劇作家としての地位を築いた。この作品は、巨大な文明機構のもとで挫折(ざせつ)し敗北していく人間、家庭の崩壊、自己実現の可能性、人間の運命などの問題を、現実と幻想とが交錯する実験的な舞台空間を通じて描き出し、主題の普遍性とあわせて新鮮な舞台演出が注目を浴びた。ついで、17世紀植民地の魔女裁判に題材をとり、集団ヒステリーの狂暴な力とマッカーシズム(赤狩り)旋風下のアメリカの政治状況とを重ね合わせた『るつぼ』(1953)、ギリシア悲劇の骨格を借りて、人間のゆがんだ情念を歴史的眺望のうちに描いた『橋からの眺め』(1955。ピュリッツァー賞)などを発表したが、そのあとしばらく沈黙の時期が続く。その間、女優マリリン・モンローとの結婚と離婚で世間を驚かせた。1964年『転落の後に』『ビシーでの出来事』の2作を発表、前者は二度目の妻モンローをモデルにした自伝的作品とみなされ、後者はナチス支配下のユダヤ人問題を扱ったもので、ともに人間に内在する罪の意識を描いている点に特色がある。
1968年の『代価』は、ミラー劇特有の家庭劇のスタイルで、家族の対立を描いている。ここでも、成功の代価としての罪悪感と、幸福の代価としての自己犠牲が対比される。1993年の『ザ・ラスト・ヤンキー』は風変わりな作品である。精神科病院の待合室を舞台に、現代の社会に充満しているストレス、個人と社会とのかかわり、家族関係が描かれていて、例によってミラーに特有の主題だが、作品のタイトルに象徴されるように、これはアメリカ国家の実像に対する批判が逆説的なかたちをとって表現されていることに注意を払う必要があるだろう。このほか小説、演劇論集があり、とくに現代における平凡人の悲劇を論じたエッセイ『悲劇と平凡人』(1949)は、大きな反響を呼び起こした。
また、1987年には自伝『タイムベンズ』(邦訳『アーサー・ミラー自伝』)が出版された。このなかでミラーは時間を自由に飛躍させながら、彼が生きてきた時代の意味と、それまでに発表してきた作品との関連を位置づけようとする。これは自伝という形式にみられがちな単純な回想ではなく、芸術家としての自己主張が抑制のきいた、真摯(しんし)な筆致で表現されているのが特色である。一つの例をあげれば、マリリン・モンローとの結婚についてのゴシップを標的にする商業主義の堕落や偏見などに鋭い批判の目を向け、彼女を暖かい目で見守っている。あるいは、『セールスマンの死』で代表されるユダヤ的アイデンティティー(時間と空間の飛躍による歴史感覚)、人間の責任(罪と道徳)、家族の連帯と崩壊といったミラー劇に特有の主題がこの自伝でも明瞭(めいりょう)に語られているのである。
ミラーはしばしば「アメリカのイプセン」とよばれた。それは、彼の作品が、いわゆる道徳的、倫理的リアリズムの系譜に属する主題が多いためである。同時に『セールスマンの死』にみられるように、彼は時間と空間の交錯という舞台技巧を駆使する実験的劇作家でもあった。こうした劇的リアリティーや劇的認識についての果敢な実験や試みが、ミラーの今日性を示すものである。
[有賀文康]
『倉橋健訳『アーサー・ミラー全集』全6巻(1974~98・早川書房)』▽『倉橋健訳『アーサー・ミラー自伝』上下(1996・早川書房)』▽『有泉学宙訳『アーサー・ミラー小説集』(1994・鷹書房プレス)』▽『佐多真徳著『アーサー・ミラー――劇作家への道』(1984・研究社出版)』▽『トーマス・E・ポーター著、有泉学宙・有賀文康訳『神話と現代アメリカ演劇』(1997・国書刊行会)』▽『川野美智子著『現代史を告発する――アーサー・ミラーの半世紀』(2000・英宝社)』
アメリカの小説家。12月26日ニューヨーク州ヨークビルに生まれ、ブルックリンで育った。ニューヨーク市立大学を中退後、国内を放浪、1917年、26歳のときビートリス・ウィケンズと結婚、1920年から1924年までウェスタン・ユニオン電信会社の雇用主任を勤めた。しかし、1923年、彼に大きな影響を与えることになるジューン・スミスと出会い、ビートリスと離婚したあとジューンと結婚、定職にはつかないまま、貧困と闘いつつ、創作の修業に励んだ。国籍離脱者の「失われた世代(ロスト・ジェネレーション)」たちが本国帰還を行っていた1930年、パリに出かけて行き、『北回帰線』(フランス1934、アメリカ1961)の出版によって作家としての地歩を築く。1939年帰国、1942年からは、ビッグ・サーなどカリフォルニア州から終生離れることなく、1967年には日本人のジャズ・ピアニスト徳田浩子(ホキ徳田)を五度目の妻に迎えて日本への関心を深めたが、1980年6月7日没した。その作品は、ラブレー的な語りに作家自身の情感、信念、感覚をちりばめた本質的に自伝的なもので、強烈な個人主義、自由や自然な衝動への愛、人間普遍の衝動を阻害するすべてのものに対する嫌悪、知的神秘的な冒険の追求、機械文明の非人間化の圧力に対する呪詛(じゅそ)などで一貫している。
なかでももっとも有名な小説『北回帰線』は、パリでのボヘミアン生活を超現実主義、平板な現実主義的手法による挿話、作者自身の印象、観想の列挙などで描いたもので、その根底には「何よりわいせつなのは無気力である」という主張があふれている。さらに超現実主義的な色彩を濃くした文体で、二度目の妻ジューン・スミスとの熱烈な恋愛、その愛による自己の精神的な蘇生(そせい)を描いたのが『南回帰線』(1939)である。『セクサス』(1949)、『プレクサス』(1953)、『ネクサス』前編(1960)からなる『薔薇色の十字架』三部作は、もっと平易な、一部小説風、一部エッセイ風の文体で、『南回帰線』と同時期の作家の愛の生活を語ったもの。これらはその大胆な性描写のためアメリカでは発禁となったが、1965年に至って禁が解かれた。これら自伝小説のほか、旅行記『マルーシの巨像』(1941)、『冷房装置の悪夢』(1945)、『追憶への追憶』(1947)、あるいはエッセイ集『心情の英智(えいち)』(1941)などにおいて、非人間化と自然な情動の発露の阻止と人間疎外を強いる現代文明を批判罵倒(ばとう)し、真の個性の形成と新しい生命の源を追求している。また水彩画家としてもよく知られ、画集も出版されている。
[筒井正明]
『大久保康雄他訳『ヘンリー・ミラー全集』全13巻(1965~1971・新潮社)』
アメリカの経済学者。ボストン生まれ。ハーバード大学に学び、1952年にジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を取得。ジョンズ・ホプキンズ大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス、カーネギー工科大学(現カーネギー・メロン大学)を経て、1965年にシカゴ大学教授に就任。1976年にはアメリカ・ファイナンス学会会長も務めた。1990年に、H・M・マルコビッツ、W・F・シャープとともにノーベル経済学賞を受賞した。受賞理由は「モディリアーニ‐ミラー理論によって企業金融理論の基礎を構築したことへの貢献」であった。
1958年、F・モディリアーニ(1985年にノーベル経済学賞受賞)との共同論文「The Cost of Capital, Corporation Finance, and the Theory of Investment.」において、企業金融、財務分析での基本理論である「モディリアーニ‐ミラー理論」(MM理論)を発表する。企業の価値が資本構成や配当政策に依存せず、投資計画は資本コストに無関係に決定されるとする法則を導き出した。
デリバティブ取引の意義を強調し、デリバティブが有する金融取引のリスク管理手段、リスクと収益の調整手段、市場における価格発見機能の役割を高く評価する。
[金子邦彦]
『齋藤治彦訳『デリバティブとは何か』(2001・東洋経済新報社)』
アメリカの心理学者。ウェスト・バージニア州のチャールストンの生まれ。1940年アラバマ大学卒業後、ハーバード大学で心理学を専攻、1946年学位をとり、続いて同大学助手、準教授を務め、1951~1955年マサチューセッツ工科大学準教授、その後、ハーバード大学、プリンストン大学、マサチューセッツ工科大学などに所属。研究分野は聴覚、言語、コミュニケーション理論、心理言語学、認知説などを含む幅広い領域である。共同研究者のなかにはチョムスキーがおり、またギャランターEugene Harrison Galanter(1924―2016)、プリブラムKarl Harry Pribram(1919―2015)との共同研究からは、TOTE(test-operate-test-exit)を単位とする行動システムの構想が生まれた。著書に『心理学の認識』(1962)などがある。
[宇津木保 2018年11月19日]
『戸田壱子・新田倫義訳『心理学の認識――ミラーの心理学入門』(1967・白揚社)』▽『G・A・ミラー著、高田洋一郎訳『心理学への情報科学的アプローチ』(1972・培風館)』▽『G・A・ミラー他著、十島雍蔵他訳『プランと行動の構造――心理サイバネティクス序説』(1980・誠信書房)』▽『G・A・ミラー著、無藤隆・久慈洋子訳『入門ことばの科学』(1983・誠信書房)』▽『ミラー著、無藤隆・青木多寿子・柏崎秀子訳『ことばの科学――単語の形成と機能』(1997・東京化学同人)』
アメリカの心理学者。ウィスコンシン州ミルウォーキーの生まれ。ワシントン大学、スタンフォード大学に学び、1935年エール大学で学位をとり、1936年までウィーンの精神分析学研究所に留学し、その後は主としてエール大学の人間関係研究所に所属、1966年からロックフェラー大学教授。1930年代から1940年代にかけてのエール大学の人間関係研究所はC・L・ハルをリーダーとして数多くの優れた心理学者を集めたが、ミラーはその中心人物の一人であった。彼の研究には精神分析的な考え方の影響が強く、刺激‐反応理論を拡張して葛藤(かっとう)行動や動機づけや社会的学習の領域にまでそれを適用しようとした共同研究が多い。著書に『欲求不満と暴力』(1939)、『社会的学習と模倣』(1941)、『人格と心理療法』(1950)などがある。
[宇津木保]
『山内光哉他訳『社会的学習と模倣』(1956・理想社)』▽『宇津木保訳『欲求不満と暴力』(1959・誠信書房)』▽『河合伊六他訳『人格と心理療法』(1972・誠信書房)』
アメリカの指揮者、編曲家、プロデューサー、オーボエ奏者。ニューヨーク州ロチェスター生まれ。本名ミッチェル・ウィリアムズMitchell Williams。12歳からオーボエを吹く。1932年イーストマン音楽学校を卒業後、ロチェスター交響楽団のオーボエ奏者となり、1936年から11年間CBS放送管弦楽団でオーボエ独奏者を務めた。1948年からジャズを含む多くの録音に参加。マーキュリー・レコードを経て、1950年からコロンビア・レコードでプロデューサーを務める。フランキー・レインFrankie Laine(1913―2007)、ローズマリー・クルーニーRosemary Clooney(1928―2002)などの歌手のプロデュースを手がけ多くのヒットを生んだ。1955年に合唱を使った『テキサスの黄色いバラ』The Yellow Rose of Texasが大ヒット。1958年に男声合唱団「ギャング」(仲間の意)を結成、アルバム『ミッチと歌おう』Sing-Along with Mitchがミリオン・セラーを記録する。NBCテレビで1961年1月から1966年9月まで人気番組「ミッチと歌おう」を放映。懐かしい名曲を素朴なスタイルで合唱して親しまれたが、70年代に現役を引退した。
[青木 啓]
ドイツの電気工学者。ミュンヘンに生まれ、同地の技術高等学校に学んだ。バイエルンの土木実習技師として1881年パリ電気博覧会を視察、電気技術の重要性を知り、翌1882年ミュンヘン電気博覧会を成功させた。1883年、ラーテナウとともにAEG(アーエーゲー)社の前身ドイツ・エジソン応用電気会社を設立。1891年のフランクフルト電気博覧会で175キロメートルの遠距離送電実験を成功させるなど、ドイツ電気事業の発展に貢献した。1903年以来ドイツ博物館の設立を準備し、1925年開館、館長に就任。1929年(昭和4)日本主催の万国工業会議に来日、技術博物館の重要性を強調した。
[高橋智子]
アメリカの歯科医学者。オハイオ州生まれ。ミシガン大学理学部に学び、ついでエジンバラ大学、ベルリン大学に留学した。ベルリンでは、のちにペンシルベニア大学歯学部長となったトルーマンJames Truman(1826―1914)やアメリカ人歯科医アボットFrank Abott(1836―1897)と交際、歯科医学に興味をもち、1877年にアメリカに帰り、ペンシルベニア大学で歯科医学を修め、再度ベルリンに行き、R・コッホのもとで細菌学の研究に従事し、やがてベルリン大学歯科の教授となった。多くの業績のなかでも『口腔(こうくう)の微生物学』(1889)は広く知られる。彼の研究は歯科医学を自然科学として成立させるのに貢献した。1907年、ミシガン大学歯学部長就任のためにアメリカに帰ったが病死した。
[本間邦則]
イギリスの鉱物学者。ウェールズに生まれる。ケンブリッジ大学を卒業。1832~1870年ケンブリッジ大学の鉱物学教授を務める。結晶学のほか、流体力学、静水力学に関する研究がある。とくに結晶面を定義づける指数(h,k,l)を最初に使用した。これを「ミラー指数」あるいは「ミラー記号」とよぶ。主著に『結晶学論』Treatise on Crystallography(1839)がある。英国学士院会員。フランス科学アカデミー会員。
[松原 聰]
アメリカのジャズ・トロンボーン奏者、編曲者、指揮者。アイオワ州生まれ。1926年ベン・ポラック楽団に参加。編曲者として注目され、37年に楽団を結成。クラリネットがリードするサックス群とブラス群を対応させた独自のスタイルを確立し、『ムーンライト・セレナード』『イン・ザ・ムード』などのヒットで高い人気を得た。第二次世界大戦で軍楽隊の指揮者になり、パリへ飛ぶ途中に行方不明。その後もミラー楽団は活動を続行している。伝記映画『グレン・ミラー物語』(1953)がある。
[青木 啓]
『G・サイモン著、柳生すみまろ訳『グレン・ミラー物語』(1987・晶文社)』
アメリカの小説家。ドイツ系移民の孫としてニューヨークに生まれ,高校卒業までブルックリンの貧民街で生活した。父親は酒好きの仕立屋であったが,母親はきびしい清教徒的道徳の持主であった。1907年にニューヨーク市立大学に入ったがまもなく退学し,転々と職を変える。20年にウェスタン・ユニオン電報会社の雇用主任となり,さまざまな背景をもった12人の電報配達員たちをモデルにした処女作を書くが,これは未発表のままに終わった。そのころすでに結婚して一女を得ていたが,23年にブロードウェーでホール専属ダンサーであったジューン・イディス・スミスと出会い,熱烈な恋愛に陥り,翌年妻と別れてジューンと結婚し,彼女ともぐり酒場を経営しながら創作修業に打ち込んだ。28年に夫婦でヨーロッパを旅行し,人々の自由な生活様式に強くひかれ,2年後には単身フランスに渡って,貧困と闘いながら自己のパリ生活を主題にした《北回帰線》(1934)を執筆。ジューンと離婚のあと,《南回帰線》(1939)を書く。これはジューンとの愛とその破綻を外面的な主題にし,この女性との〈純粋な交合〉を通じて〈生のリズム〉を発見し,超現実主義的な象徴言語の駆使によって自己の精神史を神話化するに至った過程を内面的な主題にした自伝小説である。40年にアメリカに帰り,カリフォルニアに定住して《マルーシの巨像》(1941)をはじめ,文明批評の色彩の濃いエッセーを続々と発表する一方,《ばら色の十字架刑The Rosy Crucifixion》三部作,すなわち《セクサス》(1949),《プレクサス》(1953),《ネクサス》(1960)で再び自己の過去をドラマ化した。大胆な性描写を含む《北回帰線》以下の小説がアメリカで出版を許されたのは61年である。水彩画家としても知られ,《描くことは再び愛すること》(1968)など画集も出版されている。67年にはホキ・徳田と結婚して日本でも話題を呼んだ。
執筆者:飛田 茂雄
アメリカの劇作家。ニューヨークに生まれ,苦学したのちミシガン大学に入り,在学中から戯曲で賞を得ていた。ブロードウェーでの処女作は失敗したが,次の《みんなわが子》(1947初演。以下初演年)で成功した。第2次大戦中,欠陥軍用機を納入して事故を起こした実業家が,責任を感じて自殺するまでの過程で,個人と社会の連帯の問題を追求している。ついで《セールスマンの死》(1949)では,老セールスマンが仕事でも家庭でも失敗して自殺するまでを斬新な手法で描き,アメリカ演劇に一時期を画する名作とされた。《るつぼ》(1953)は,17世紀末のセーレムの魔女裁判に材をとり,狂信が良識をふみにじる恐怖を効果的に劇化した作品で,そのころマッカーシー旋風にまきこまれていた作者の状況を反映している。《橋からの眺め》(1955)は,身内の密入国者をかくまう沖仲仕の家庭での,愛欲と社会的連帯との葛藤がテーマである。長いブランクののち発表された《転落のあと》(1964)は,意識の流れをそのまま舞台に展開した実験的な作品で,ミラーのマリリン・モンローとの結婚生活(1956-61)の影響がうかがえる。64年の《ビシーでのできごと》と《代価》(1968)は,ともに〈罪のつぐない〉をテーマとしている。《天地創造その他》(1972)は聖書の現代的解釈で,のちミュージカルに改作された。《大主教の天井》(1977),《アメリカの時計》(1979),囚人たちのオーケストラをとりあげたテレビドラマ《しばしの演奏》(1984)などではさらに新しい題材と形式にとりくんだ。《北京での“セールスマン”》(1984)は,中国で《セールスマンの死》を演出した経験について書かれた作品である。ほかに小説《焦点》(1945刊),短編小説集,ルポルタージュ,ラジオドラマおよび評論集がある。
執筆者:西田 実
アメリカの白人バンド・リーダー,トロンボーン奏者。アイオワ州に生まれ,コロラド大学卒業後,1926-28年ベニー・グッドマンとともにベン・ポラック楽団で演奏,29-30年にはレッド・ニコルズとファイブ・ペニーズのレコーディングに,トロンボーン・プレーばかりでなくアレンジも提供する。34年ドーシー・ブラザーズ,35年レイ・ノーブルのアメリカン・オールスターズにアレンジャー兼プレーヤーとして参加,数々の名アレンジを提供して有名となった。37年自らの楽団を結成したが成功せず,翌年春バンドを再編成し,〈ミラー・サウンド〉として知られるバンド・スタイルで成功を収めた。しかし42年,人気の絶頂でバンドを解散,単身応召して空軍に入り,空軍バンドを率いてヨーロッパ戦線を慰問中,イギリスからパリへ向かう飛行機で行方不明となり,戦死と認定された。53年に伝記映画《グレン・ミラー物語》(アンソニー・マン監督,ジェームズ・スチュアート,ジューン・アリソン主演)が製作されている。代表作に,自ら作曲した《ムーンライト・セレナーデ》のほか,《真珠の首飾》《茶色の小瓶》などがある。
執筆者:油井 正一
アメリカの思想家,文学研究家。1930年代から初期ニューイングランド思想に関する業績を発表,第2次大戦後は人文科学の代表的学者としてアメリカ文化研究に多大の影響を与えた。ピューリタニズム研究では時代を画する貢献をなし,ロマン主義文学についても示唆的解釈を提示した。アメリカ文明の知的源流の探求を志し,好古趣味の対象とされていたピューリタニズムを課題にして1931年シカゴ大学で学位を得る。同年からハーバード大学で教鞭をとり,〈ピューリタン・ルネサンス〉と呼ばれるニューイングランド研究の高揚に寄与する。自由の発達を尺度とした進歩史観にとらわれず,人間の思想的営み自体を描くことにより,アメリカ文明の特質を明らかにした。代表作《ニューイングランド・マインド》2巻(1939,53)は〈インテレクチュアル・ヒストリー(思想文化史)〉叙述の模範とされる。
執筆者:大下 尚一
アメリカの作家。ペンシルベニア州に生まれ,アイオワ大学を卒業後,第2次大戦に参加,以後ニューヨークに定住して作家活動をつづけた。アマンダ・ベールAmanda Veilという筆名を用いたり,児童文学にも手を染めたりしたが,ハーレムに住む黒人少年の非行を克明に描いた《クール・ワールド》(1959)で一躍有名になった。風刺を秘めた冷酷な筆致で現代社会の退廃をあばくことを得意とし,つづいて《フラッシュ・タイムズ》(1962),《ハーレムの包囲》(1965)などを発表したが,夭逝した。
執筆者:大橋 吉之輔
アメリカの詩人。インディアナ州に生まれ,1856年,カリフォルニアの金鉱地帯に赴き,オレゴン州で雑多な職業につく。その後イギリスに渡り,《太平洋詩集》(1870),《シエラ・ネバダの歌》(1871)を発表するとともに,西部男の服装をした自己演技や,奇行によって〈フロンティアの詩人〉〈オレゴン州のバイロン〉と称された。カリフォルニア滞在中の野口米次郎は彼の知遇を得,その作品を日本に紹介した。
執筆者:渡辺 利雄
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…フィルター付きの低タールタバコを主製品としているため,タバコと健康問題が騒がれているなかでシェアを拡大している。69年にビール会社のミラー社Miller Brewing Co.を買収,積極的な設備投資と新製品の開発を行い,アメリカにおけるビールのシェアを70年代初めの4%台から80年には20%にまで押しあげた。78年にはソフトドリンクスのセブン・アップ社Seven‐Up Co.を買収した。…
…今日のミュージカルの芸術的価値については疑問があるが,大衆的ジャンルとしてとりわけ商業演劇においては大きな位置を占めている。 文学的戯曲の系譜では,第2次大戦後間もなく地位を確立させたT.ウィリアムズとA.ミラーが重要である。2人の作風は対照的で,前者がおおむねアメリカ南部を舞台にして個人の病的心理を描くのに対して,後者は個人を社会構造の中でとらえようとする。…
…アメリカの劇作家A.ミラーの代表作。1949年初演。…
…死後さまざまに〈伝説化〉されているモンローは,いわゆる〈大女優〉ではなかったが,《アスファルト・ジャングル》から《荒馬と女》にいたる11年間に,ハリウッドに2億ドルの収益をもたらした〈大スター〉であった。その実像は,劇作家アーサー・ミラー(モンローのために《荒馬と女》の脚本を書いた)に対する〈尊敬を恋愛と誤認〉し,ユダヤ教に改宗までして結婚したほど〈芸術と知性に対する英雄崇拝〉を抱いている純情な女であったともいわれる。また,〈マリリン・モンロー・プロ〉の《王子と踊る》(1957)の監督と共演を引き受けたローレンス・オリビエは,〈モンローこそは誇大宣伝とセンセーショナリズムの完全な犠牲者である〉と語っている。…
…ノリス的自然主義者スタインベックは《怒りの葡萄》(1939)で農民の窮境を叙事詩的に語り,コールドウェルは南部の貧しい白人を,J.T.ファレルは都会の不良少年を,黒人作家R.ライトは抑圧された黒人の姿を,それぞれなまなましく描いた。またT.ウルフやH.ミラーは自伝的作品によって原始的生命をもった個性への復帰を示した。 詩の分野では1912年に創刊された《ポエトリー》誌を中心に,E.L.マスターズやサンドバーグらのシカゴ・グループと呼ばれる詩人たちが中西部の民衆の心を口語的リズムで歌い出した。…
…糞便を嫌忌すべきものとして隠ぺいするのでなく,自然な排泄行為の結果として肯定し,それをおおらかに笑うのである。スカトロジックな傾向をもつH.ミラーは,《暗い春》(1936)のなかで次のように書く。性とともに排泄あるいは肛門など人間の〈動物的起源〉を隠ぺいしようとする偽善的良識を笑うために,スカトロジックなイメージを利用するのだ,と。…
…再臨派ともいう。キリスト教史のはじめからいつの時代にもみられる運動であるが,教派としては1831年,アメリカでミラーWilliam Miller(1782‐1849)というバプティストの農民説教者によって始められた運動にさかのぼる。ミラーは,聖書にもとづく計算によるとキリストの再臨は1843年と44年のあいだにおこると予言して多くの人々を恐怖におとしいれ,財産を売るものもでてきた。…
※「ミラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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