皇嗣(こうし)たる皇子である皇太子の配偶者の称。明治以前においては、たとえば律令(りつりょう)などにおいて、とくに皇太子の規定がなく、皇女、皇弟、皇孫が皇太子となる場合があり、また1人とは限らなかった。このため皇太子妃についても、とくに規定はなく、男子の皇太子の配偶者としての意味として把握せざるを得ない。そもそも「妃」は、後宮における后妃(こうひ)の地位の一つで、律令においては、皇后に次ぐ天皇の妻室をさし、夫人、嬪(ひん)の上位にあった。他方、天皇以下、皇太子、親王などの配偶者をさす総称でもあった。1889年(明治22)に皇室典範が制定され、「皇位ハ皇長子ニ伝フ」、「皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ伝フ」と、皇位継承順位が確立し、生まれながら皇太子としての身位(しんい)が決められ、皇太子の配偶者として皇太子妃という概念も定着した。もっとも、大正天皇の皇太子時代までは儲君治定(ちょくんじじょう)、立太子(りったいし)の礼によって身位が定められ、生まれながらの皇太子は裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)以後のこととなる。第二次世界大戦前までは、皇后になるべき身分は、皇族あるいは公侯爵の子女という内規があり、そのため皇太子妃についても身分の制約があった。実際、明治天皇の皇后の一条美子(はるこ)と大正天皇の皇后の九条節子(さだこ)は、ともに摂家(せっけ)で明治維新後に公爵家となり、昭和天皇の皇后は皇族久邇宮(くにのみや)家の良子(ながこ)であった。しかし、第二次世界大戦後は皇室典範も改正されて、内規も撤廃され、皇太子明仁(あきひと)親王(今上天皇)の妃には、旧皇族でも華族でもない、日清(にっしん)製粉社長正田英三郎(しょうだひでさぶろう)の長女の正田美智子(みちこ)が決定し、新時代の皇太子妃として広く受け入れられた。一方、旧来の伝統を尊重する人々のなかには、こうした動きに同調しえず、それらは結果として美智子皇太子妃への精神的圧迫となったとも伝えられる。現皇太子徳仁(なるひと)親王の妃も、外務官僚である小和田恒(おわだひさし)の長女で自身も現役の外務官僚であった小和田雅子(まさこ)が決定し、従来の身分による規制は事実上もなくなった。
[小田部雄次]
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