改訂新版 世界大百科事典 「ダルマシャーストラ」の意味・わかりやすい解説
ダルマ・シャーストラ
dharma-śāstra
インドで作られた〈法〉に関する文献群の総称で,通例〈法典〉と訳す。〈ヒンドゥー法典〉とも呼ばれる。狭義には,前2世紀から後5世紀にわたって成立した《マヌ法典》《ヤージュニャバルキヤ法典》など,〈ダルマ・シャーストラ〉あるいは〈スムリティ〉(憶伝書)の名をもつ一群の文献をさす。
〈法(ダルマ)〉に関しては,すでにダルマ・スートラ(律法経)と称する文献群がバラモン教の聖典ベーダに付随して成立しており,バラモン教社会を構成する4階級(バルナ)それぞれの権利・義務や日常の生活法を規定していた。〈法〉についての研究はその後ダルマ・スートラにもとづきながらも,しだいにベーダから独立した学問として発達し,その成果として各種の〈ダルマ・シャーストラ〉が作り出された。したがって,〈ダルマ・シャーストラ〉も裁判や訴訟審理などの実務上の必要を満たすことを直接の目的として成立したものではなく,起源的には学術的文献の一種とみなすべきである。
〈法〉と訳されるサンスクリットの〈ダルマ〉は,いわゆる〈法制〉の側面に限定しても,現代的意味での〈法律〉にとどまらず,慣例,習慣,制度など,社会を維持するための規範一般を包括しており,とくに宗教的規範としての色彩が濃厚である。〈ダルマ・シャーストラ〉の規定もその大部分が宗教的な権利・義務に関するものであり,一部に現在の刑法・民法に相当する部分を含んでいる。その具体的内容を大別すれば,(1)バラモンをはじめとする4階級それぞれの権利と義務,(2)人生においてふむべき四つの生活期〈アーシュラマ〉のそれぞれにおける権利と義務,(3)王の権利・義務および行政,軍事,外交などについての規範,(4)刑法および民法,(5)贖罪(しよくざい)の規定,などがあげられ,さらに神話的な宇宙論,輪廻(りんね)や解脱(げだつ)についての教説を含むものが多い。ベーダ以来のバラモン至上主義を反映して,バラモンすなわち祭官階級の利害を最重要視した規定の多いことが特徴としてあげられる。
〈ダルマ・シャーストラ〉の法源としては,ダルマ・スートラから継承したベーダ聖典の天啓〈シュルティśruti〉およびベーダに精通した人々による伝承〈スムリティsmṛti〉がまず第一にあげられるが,その他に有徳者の慣習〈シシュターチャーラśiṣṭācāra〉や地方,階級,家系の内部でそれぞれに成立した慣習法〈デーシャ・ジャーティ・クラ・ダルマdeśa-jāti-kula-dharma〉を法源としてあげる文献も多い。
〈ダルマ・シャーストラ〉は,上述のとおり実際的な強制力をもった法令集ではなかったが,バラモン教およびそれから発展したヒンドゥー教の社会の中で,民衆の生活の規範として長期にわたり尊重された。とくに《マヌ法典》はビルマ(現,ミャンマー),タイ,ジャワなどの東南アジア諸地域にも広まり,各地の法典の基本となり,あるいはそのまま法典として用いられた。
〈ダルマ・シャーストラ〉の作成は10世紀以後までつづくが,5世紀以後はむしろ,《マヌ法典》《ヤージュニャバルキヤ法典》に対する注釈書が重要な意味をもつ。とくに後者に対する《ミタークシャラー》と呼ばれる注釈は独立の法律書として権威をもち,その一部はイギリス領時代の裁判にも用いられた。11世紀以後には,もろもろの王の命により,またイギリスの植民地政府の命により,古い法典類の条文を抜粋した実用的法規集ダルマ・ニバンダdharma-nibandhaが編纂され,裁判に用いられた。
執筆者:吉岡 司郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報