ツタンカーメン(読み)つたんかーめん(英語表記)Tutankhamen

翻訳|Tutankhamen

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ツタンカーメン」の意味・わかりやすい解説

ツタンカーメン
つたんかーめん
Tutankhamen

生没年不詳。古代エジプト第18王朝の12代目の王(在位前1363ころ~前1354ころ)。運命にもてあそばれた少年王として、またほとんど無傷の王墓を今日にまで残した例外的な王として、古代エジプトの諸王のなかでもっとも人々に親しまれている。

 イクナートンの治世中にテーベでイクナートンの血縁者(たぶん腹違いの弟)として生まれた彼は、新しい信仰の神に従う者として、ツタンカートン(トゥト・アンク・アトン=アトンの生けるしるし)と命名された。やがて首都アマルナのイクナートン王家に預けられ、王妃ネフェルティティもとで王女たちとともに育てられた。晩年のイクナートンはテーベのアメン祭司団との和解を考え始め、弟セメンクカラを共治の王としてテーベに居住させた。しかし、イクナートンもセメンクカラも相次いで死去し、後継の王として、ツタンカートンが王女アンケセンパートン(アンク・エス・エン・パ・アトン=アトンによって生きるもの)とあわただしく結婚式をあげた。ときに王は10歳、王妃は12歳であった。たぶん治世の最初の2年間を王は養母ネフェルティティの住むアマルナに過ごした。治世3年目にネフェルティティが死去した時期をとらえて、テーベへの遷都(あるいは帰還)が行われた。同時に王と王妃はテーベの主神アメンへの信仰を示すために、それぞれの名をツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン=アメンの生けるしるし)、アンケセナーメン(アンク・エス・エン・アメン=アメンによって生きるもの)と改めた。

 治世9年、ツタンカーメンは18歳で死去した。宮内大臣アイが、自らのために用意した墓にツタンカーメンを埋葬した。アイは未亡人アンケセナーメンと結婚して、後継王となった。アンケセナーメンは当初アイとの結婚を望まず、ヒッタイト王国の王子を王として迎える工作をしたことがある。しかしこれは成功せず、結局彼女はアイと結婚した。

[酒井傳六]

王墓の発掘

それからほぼ3300年後の1922年に、イギリスの貴族カーナーボンの出資によって、テーベの王家の谷で調査したイギリスの考古学者カーターは、ツタンカーメン王墓を発見し、10年の歳月をかけて慎重に発掘、発見物をすべてカイロ博物館に収めた。埋葬から数年を経て二度続けて盗掘されたことが明らかになったが、その盗掘で失われたものは軽微であることもまた確かめられた。

 墓は階段から始まり、羨道(えんどう)を経て前室に入る。前室はライオン形寝台をはじめとする家具、調度品で満たされ、西側に副室を備え、北側で玄室につながっていた。玄室では王のミイラが八重の装置の中に収めてあった。まず入れ子になった4個の大形の黄金張り木製厨子(ずし)、ついで石棺、そのあとに三重の人形棺という装置である。人形棺のうち外側の2個は黄金張り木製であるが、いちばん内側の棺は純金製であった。その中に包帯と金、銀、宝石の装身具と護符と花に守られて王のミイラがあり、その顔には純金製のマスクがつけられていた。王の身長は168センチメートルであった。玄室の東側に宝物室があり、アヌビス(犬形の死者の神)の木彫像をはじめとする副葬品で満たされていた。王の子である胎児2体のミイラもここにあった。豊富な壁画をもつ他の王墓と違って、ツタンカーメン王墓の場合には壁画を備えているのは玄室だけである。

 カーターがカイロ博物館に収めた発掘品は1703点(同館カタログの番号による)に上り、ここに古代エジプトの宗教と芸術と生活を生き生きと伝える豊富な遺物が現代人の前に提供された。カーター手稿をもとにしたツタンカーメン研究は、1960年代からオックスフォード大学のグループによって進められ、次々と報告書が出されている。カーターは博物館に収めた発見物のほかに、かなりの数のものを出資者のためにひそかに持ち出したとする説が、1978年アメリカの学者によって出された。

[酒井傳六]

『デローシュ・ノーブルクール著、佐貫健・屋形禎亮訳『トゥトアンクアモン』(1966・みすず書房)』『H・カーター著、酒井傳六・熊田亨訳『ツタンカーメン発掘記』(1971・筑摩書房)』


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