精選版 日本国語大辞典 「トスティ」の意味・読み・例文・類語 トスティ ( Francesco Paolo Tosti フランチェスコ=パオロ━ ) イタリアの作曲家。ナポリで音楽を教えたのち、イギリス王室の歌唱教師となり抒情的な多くの歌曲をつくった。(一八四六‐一九一六) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「トスティ」の意味・わかりやすい解説 トスティFrancesco Paolo Tosti生没年:1846-1916 イタリアの歌曲作曲家。1857-66年ナポリの王立音楽学校に学ぶ。その後ローマで王室の歌唱教師などをつとめ,75年ロンドンでデビュー。80年イギリス王室の歌唱教師,94年よりローヤル音楽アカデミーで教え,1912年ローマに戻る。気品ある抒情性ゆたかな旋律によりイタリア歌曲の芸術性を大いに高めた。《朝の歌》《セレナード》をはじめ,《さようなら》《夢》などが有名である。執筆者:西原 稔 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トスティ」の意味・わかりやすい解説 トスティTosti, Francesco Paolo [生]1846.4.9. オルトーナスルマーレ[没]1916.12.2. ローマイタリアの作曲家。ナポリのサン・ピエトロ・マイエラ音楽学校でバイオリンと作曲を学ぶ。 1866年卒業と同時に同校の助教授となったが,健康を害し故郷に戻る。静養しながら歌曲を作曲,ローマで作品を発表し成功。 75年ロンドンを訪れ,認められて,80年以後王家所属の声学教師として指導にあたった。 94年王立音楽院の声楽教授に就任,イギリスの市民権を得る。 1913年故国に帰った。オペラ全盛の国に生れながら,歌曲の精神を愛し,イタリア歌曲を芸術歌曲の域に高めた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「トスティ」の意味・わかりやすい解説 トスティとすてぃ(Francesco) Paolo Tosti(1846―1916) イタリアの歌曲作曲家、声楽教師。オルトナ生まれ。1858年からナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエッラ王立音楽院でバイオリンと作曲を学ぶ。同校で教えたのち、80年にロンドンに定住、王室の声楽教師を務め、1908年にサーの称号を得た。12年にイタリアに戻り、ローマで没。彼の作品表はすべて歌曲とバラードで、その美しく平易な旋律は広く愛唱されて現在に至る。有名な作品に『理想』『悲しみ』『マレキャーレ』『最後の歌』などがある。[船山信子] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
百科事典マイペディア 「トスティ」の意味・わかりやすい解説 トスティ イタリアの作曲家。ナポリの王立音楽学校に学ぶ。1880年から英国王室の歌唱教師,1894年ローヤル音楽アカデミー声楽教授。英国市民権も得たが,のちイタリアに戻りローマで死去。イタリア語,フランス語,英語などで親しみやすい歌曲を数多く作曲し,人気を得た。代表作に《朝の歌》《セレナード(セレナータ)》《さようなら》《夢》など。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by