フランスの理論物理学者。ノルマンディー地方のディエップの生まれ。イタリアのピエモンテ出身の貴族の家系で、一族には政治家、軍人、学者などが多く、1877年のクーデターでフランスの首相になったジャックJacques Victor Albert de Broglie(1821―1901)は彼の祖父にあたり、兄モーリスMaurice de Broglie(1875―1960)は実験物理学者で、X線の実験的研究で知られる。パリ大学で文学と歴史の課程を修めたのち、自然科学に転じ、1924年学位を得た。第一次世界大戦中は陸軍の無線部に所属、エッフェル塔で勤務し、技術問題を研究した。大戦後、パリ大学の私講師、ポアンカレ研究所員(1928)を経て、1932年パリ大学教授となり、1962年の退官までその職にあった。生涯を独身で通し、1960年、兄の死により公爵となり、その貴族的雰囲気と、優れた直観と類推による方法とで知られたユニークな物理学者であり、啓蒙(けいもう)的な著作もあり、それによってユネスコ(国連教育科学文化機関)から科学普及のためのカリンガ賞(科学や研究、技術を社会に普及させることに貢献した著述家などに贈られる賞)を受け、またレジオン・ドヌール勲章のグランクロアを授与されている。
X線の本性は波と粒子の複合体であるかもしれないという兄モーリスの考えに刺激されて、波と粒子の問題の検討から始めた。当時、光については、アインシュタインが光電効果の解釈から与えた光量子論(1905)が、コンプトン効果の発見(1922)によって裏づけられ、光が波と粒子との二重的性格をもつことが確定されていた。ド・ブローイは、この考えを展開して、物質粒子(電子)に拡張し、電子も波と粒子の二重性をもつと予想した。すなわち、電子も粒子としての古典的描像のほかに、それに伴う波動的性質をもたなければならないという物質波の考えを示し(1923)、これを付随波とよんで、内部の周期的運動に関連させた。翌1924年、質量とエネルギーに関するアインシュタインの式(E=mc2)と、放射のエネルギーに関するプランクの式(E=hν)を結び付け、物質波の波長として、いわゆるド・ブローイの関係(|p|=h/λ)を与えた。これは、形式的なアナロジーに基づく大胆な提案であったが、ただちにアインシュタインらの支持を得、ボルン、フランク、エルザッサーWalter M. Elsasser(1904―1991)らは、その実験的検証を論じ、そのなかにはデビッソンらの実験のコメントが含まれていた。デビッソンとガーマーLester Halbert Germer(1896―1971)は、ド・ブローイの提案に基づいて、ニッケル単結晶による電子波の回折写真の撮影に成功している(1927)。こうしてド・ブローイの理論は実験的に立証され、物理学は新たな段階、つまり波動力学から量子力学への建設の時期に入ったのである。1929年、「電子の波動性の発見」によりノーベル物理学賞を受賞。
1930年代以降ド・ブローイが取り組んだ研究は「光子の波動力学」である。ディラック電子論を検討して、複合モデルによる光の理論をたて(1936)、さらにその一般化を目ざし(1942)、のちにそれによる素粒子の分類を試みている(1950~1951)。その後、ボームDavid Joseph Bohm(1917―1992)らの因果性の問題の検討に刺激され、量子力学の正統的解釈と観測理論の再吟味を行い、非線型波動方程式へのアプローチを行い、また「超量子的」真空のゆらぎによる量子論の確率的要素の解釈を試みた。
[藤村 淳]
『ルイ・ドゥ・ブロイ著、河野与一訳『物質と光』(岩波文庫)』▽『J・L・アンドラード・エ・シルヴァ、G・ロシャク著、高林武彦・荒牧正也訳『量子』(1970・平凡社)』
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