アメリカ自然主義の代表的小説家。社会環境に刺激され成功の夢に翻弄(ほんろう)される人間の姿を、自己体験や事実調査に基づいて赤裸々に描き、アメリカの皮相な物質文明と偏狭な道徳観念を批判した。1871年8月27日、インディアナ州テレ・ホートにドイツ系移民の第12子として生まれる。貧困のため州内を転々としながら、父の厳格なカトリック的教育に反発する兄や姉たちの奔放な生き方と、口うるさい田舎(いなか)町の因習をみながら幼少時代を過ごす。16歳たらずで単身シカゴに出て働き、1年間はインディアナ大学に学んだが、20歳のとき新聞記者になる。94年3月、22歳で東部へ向かい、途中ピッツバーグで7か月の記者生活を送る間、鉄鋼企業の経営者と労働者の貧富の格差をまざまざと目にして社会への疑問を大きくする一方、図書館でバルザックの社会小説『ゴリオ爺(じい)さん』やスペンサーの進化論哲学『第一原理』を読んで、人生に目を開いた。
ニューヨークでは音楽雑誌の編集やフリーの雑誌記者を経験し、1899年夏、友人の勧めで『黒人ジェフ』など4、5編の短編小説を書き、続いて長編『シスター・キャリー』(1900)を7か月かけて完成した。これは写実主義に徹した作品。生来の美貌(びぼう)を利用し男を踏み台に女優として成功する主人公キャリーの生き方が「不道徳」だと出版が難航し、売れ行きも悪く一般に不評で、経済的、精神的に大きな打撃を受けた。2年前に結婚した妻サリーとの不仲もあってその後3年間は神経症に悩み、その後数年は大衆雑誌や服飾女性雑誌の編集に従事した。1910年、女性問題で職を退いてからふたたび小説に向かい、真実の愛を貫いて日陰者として生きる純朴な女性の物語『ジェニー・ゲアハート』(1911)、19世紀後半に実在した人物をモデルに資本主義社会のたくましい経営者像を描く「欲望三部作」の第一部『資本家』(1912)と第二部『巨人』(1914)を発表した。次作『天才』(1915)は自伝的長編で、周囲の因習に才能の発現を妨げられる画家の生き方を描いたが、悪徳防止協会から猥褻(わいせつ)と攻撃されて発禁処分を受け、批評家メンケンらが弁護した。
その後、短編集『自由』(1918)、評論集『ヘイ・ラバ・ダブダブ』(1920)などを経て、成功のために「殺人」を犯す貧しい青年を描いた大作『アメリカの悲劇』(1925)を完成、当時の文壇で「現代最高のアメリカ小説」とまで絶賛された。1927年から1928年にかけてのソ連訪問と1929年の経済恐慌をきっかけに社会運動に傾き、社会評論『悲劇的なアメリカ』(1931)では資本主義を批判して社会主義的な人民政府を提唱、炭鉱ストの実態調査やスペイン人民政府支援にも力を尽くした。だが、ドライサーが夢みるのは精神的な価値を基礎として人々の自由と幸福を目ざす理想的社会で、死後出版の『とりで』(1946)でも、個人の精神の美(内なる光)に基づく人間相互の愛と善意の尊重を訴えている。1945年7月共産党に入党し、同年12月28日没。「欲望三部作」の第三部『禁欲の人』(1947)、哲学的随想集『人生論ノート』(1974)も死後の出版。
[大浦暁生]
『高村勝治編『ドライサー』(『20世紀英米文学案内11』1990・研究社出版)』
アメリカの小説家。インディアナ州テレ・ホートのドイツ系移民の織物工の子として生まれる。狂信的カトリック教徒の父親が支配する極貧家庭に育ち,早くから宗教,道徳と現実との矛盾を感じ,弱者への同情と富への憧れを抱く。高校中退後,シカゴで皿洗いなど職を転々としているうち,高校の恩師の世話でインディアナ大学に入るが,1年で退学,新聞記者となり,シカゴ,セント・ルイス,ピッツバーグと渡り歩く。1894年ニューヨークに出て,作詩者として有名になっていた兄ドレッサーPaul Dresser(筆名)の助力で雑誌編集者となる。その間,H.スペンサー,T.H.ハクスリー,J.ティンダルの思想に感銘を受け,バルザックを通じて小説に関心を持つようになる。1900年,友人のすすめで書いた《シスター・キャリー》がフランク・ノリスの推挙でダブルデー・ページ社から出版されたが,既成道徳に挑戦するような内容であり,期待したほどの反響もなく,失意のあまり神経衰弱にかかる。その後,女性問題で雑誌社を辞し,創作に専心,薄幸の女を描いた《ジェニー・ガーハート》(1911)によって作家的地位を確立する。次いでめっき(鍍金)時代の実業家をモデルに進化論と超人思想の入りまじった〈欲望三部作〉の1部《資本家》(1912),2部《巨人》(1914)を相次いで発表した。15年,自伝的小説《天才》がニューヨーク悪徳防止協会から告訴され,わいせつのかどで発禁処分を受けたが,H.L.メンケン,シャーウッド・アンダーソンなど文化人478名が抗議するなど話題を呼んだ。評論集《ヘイ・ラバ・ダブ・ダブ》(1920),戯曲《陶工の手》(1918)を出したのち,《アメリカの悲劇》(1925)を出版,国際的にも名声を得た。これにより27年にソ連革命10周年記念に招待され,《ドライサー,ロシアを見る》(1928)を出す。30年代に入ると,社会主義に傾き,《悲劇的アメリカ》(1931)を書き,ドス・パソスとともにケンタッキー州の炭鉱ストを支援し,45年には共産党に入党した。しかし,死後出版された《とりで》(1946),〈欲望三部作〉の3部にあたる《克己の人》(1947)の主人公の姿を通じて宗教的回心がみられ,人生の意味を求めつづけた作家の最後の境地を示している。晩年はハリウッドに住み,腎臓炎で亡くなったが,葬儀には友人チャップリンが参列,ドライサーの詩《わたしの来た道》を朗読した。
執筆者:井上 謙治
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…ノリスは自分の自然主義は新しい形のロマンスであると主張し,クレーンは事実の克明な描写をさけて,印象主義的な手法を用いた。そこにアメリカ自然主義の特異性があるが,この流れが20世紀になってW.キャザー,S.アンダーソン,S.ルイスなどに受け継がれ,ドライサーの《アメリカの悲劇》(1925)において最高潮に達したと言えよう。 第1次世界大戦を経て,戦後のいわゆるロスト・ジェネレーションの作家たちは,1920年代の〈荒地〉的風景において,その名の示す通り,神の恩寵から見放された人間の状況を書いた。…
…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…
…1951年製作のアメリカ映画。ジョージ・スティーブンズ製作・監督作品で,1906年にニューヨーク州で起きた殺人事件とその裁判を題材にしたT.ドライサーの小説《アメリカの悲劇》(1925)の2度目の映画化である。最初の映画化は31年にジョセフ・フォン・スタンバーグ監督により行われ,原作と同じ題のまま〈ロマンティック・メロドラマ〉としてつくられたが,サミュエル・ホッフェンスタインの脚本を読んでその換骨奪胎ぶりに激怒したドライサーが,映画の公開を阻止しようとして法廷で争って敗れたといういきさつがある。…
※「ドライサー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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