古代アテナイの立法家。生没年不詳。前624年または前621年アテナイの慣習法をはじめて成文化した。これは貴族政末期,平民の台頭を背景として,その要求に一部こたえるものとして制定されたもので,ソロンのノモイnomoi(法)と区別してテスモイthesmoi(掟)とよばれる。彼の掟は刑罰の苛酷さをもって有名で,前4世紀の弁論家デマデスによって〈血で書かれた〉と評されたほどである。そのため彼の掟はソロンによって殺人に関するもの以外は廃止されたのでわからないが,殺人に関する掟は前409年または前408年再公布された掟の碑文によって一部判明した。それによると,殺人は故意の殺人と無意の殺人(すなわち過失致死)が区別されていたと推定され,無意の殺人の場合は,裁判はポリス共同体の役人の仕事とされ,告発は被害者の一定範囲の近親者や彼の属したフラトリア(兄弟団または胞族)だけが行うことができると規定されている。おそらくこれは,〈血の復讐〉に基づく貴族の〈仇討〉を廃止するという含みがあったものと思われる。それはキュロンの陰謀とアルクメオニダイによるキュロン一味の殺戮(さつりく)とが,とどまるところを知らぬ流血をひきおこしたと思われるからである。ドラコンの掟は回転柱に記されて〈王の列柱館〉に立てられたと伝えられる。掟がアゴラに公示されたということは,貴族が自己の利益に合わせて慣習法を解釈・適用するという旧制度を廃棄したことを意味し,平民の権利伸張の一段階を画するものであった。
執筆者:太田 秀通
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生没年不詳。紀元前7世紀後半のアテネの立法者。前632/631年のキロンによる僭主(せんしゅ)政樹立の失敗ののちに、前621/620(または前624/623)年、特別の任命により、それまでの法慣行を基礎とするアテネ最初の成文法を制定、公開した。裁判権を独占する貴族の解釈にゆだねられていた法を、平民をも含む市民全員のものとして明文化し、貴族による恣意(しい)的な裁判運営に歯止めを設けたものと評価されている。その特徴としては、刑罰の過酷さのみが伝えられており、殺人の法を除いて、すべての法は前6世紀の初めにソロンによって廃止された。殺人の法については、前4世紀に至るまで有効な法として受け継がれた。
[前沢伸行]
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前7世紀
アテネの人。ロクロイのザレウコス,カタナのカロンダスと並び称される初期ギリシアの立法家。前621年,私法,刑法に関するアテネの慣習法を集成し,これに改正を施して公布したと伝えられる。
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…しかしこの頃すでにアテナイでも確立されていた重装歩兵制では,平民の働きに依存するところが大きかったので,貴族たちも平民の政治的要求にしだいに応じざるをえなくなった。その第一段階をなすのが前624年のドラコンの立法で,この法はそれまでの慣習法を集成し,明文化することによって,貴族による法の恣意的解釈に歯止めをかける効果をもたらした。 アテナイ民主政の成立にとり,より大きな画期をなしたのは,前594年のソロンの改革である。…
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