ナラムシン(その他表記)Naram-Sin

改訂新版 世界大百科事典 「ナラムシン」の意味・わかりやすい解説

ナラムシン
Naram-Sin

古代メソポタミアアッカド王国の第4代の王。ナラムスエンNaram-Suenともいう。在位,前2260ころ-前2223年ころ,または前2270ころ-前2233年ころ。王国の創始者サルゴンの孫。第2代の叔父リムシュ同様,第3代の父マニシュトゥシュが宮廷陰謀によって暗殺されたのち即位した。キシュシュメールの諸都市が独立し,祖父サルゴンと同じ〈アッカドの王〉から再出発した。王はまず東・南方商業の要衝エラム征服し,功臣をこの地の総督に任じたのち,〈強き男〉の称号を付け加えた。キシュ,ウンマ,ウル,ウルクを中心とする大反乱を寡勢のアッカド軍のみをもって奇跡的に鎮圧してシュメール・アッカドの地を完全に統一,ニップールのエンリル神殿を再建した。またアッシリア西方地中海沿岸まで進出してルルビ族などの侵入を排し,サルゴンの帝国を完全に回復,以後〈四方世界の王〉を常に名のり,さらに〈アッカドの神〉を称して自分の神殿をアッカド市に建てたり,自分の名の前に神を示す決定詞を付させたりした。この生前の王の神化の慣行は,以後のアッカドの諸王およびウル第3王朝の王たちへと継承された。

 王は内政面ではサルゴンの創始した組織の制度化を図り,また多数の血縁者を聖俗の高位・高官につけて統一の実を挙げようとした。実際,王の治世はシュメール,アッカドばかりでなく,ディヤラ川流域やエラムの諸都市からも多数の美しい文字で書かれた行政文書が,またティグリス川上流のディヤルバクルからギルススーサまで約1000kmにわたって王碑文が出土し,アッカド史上の最盛期であったことを証明している。ナラムシンはこのように優れた王であり,王国の繁栄はその子シャルカリシャリ(宮廷陰謀のため暗殺された)の治世まで維持されたにもかかわらず,その伝承はサルゴンに比べはるかに少なく,また最期は不幸に終わる型の伝承が伝わっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナラムシン」の意味・わかりやすい解説

ナラム・シン
ならむしん
(?―前2218)

古代メソポタミアの古アッカド王国第4代目の王(在位前2254~前2218)。古アッカド王国の中興の祖で、彼の勇名は伝説化され後代にまで伝えられた(「クタの王」「ナラム・シン叙事詩」など)。事実、東方のエラム、西方のシリア(エブラ王国を含む)、北方のスバルトゥと、彼が当時の古代オリエント地域を広く軍事的に征服したことは、その戦勝碑文からも知られる。また、戦勝碑に浮き彫りされた彼の雄姿は、メソポタミアの英雄像の一原型として美術史的にも重要な意味をもつ。彼は後の王たちによってしばしば神格化され、その石像は崇拝の対象となった。古アッカド王国自体は彼の死後急速に衰えていった。なお、彼の名の意味は「シン(月神)の寵児(ちょうじ)」。

[月本昭男]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナラムシン」の解説

ナラム・シン
Naram-Sin

(在位前23世紀後半頃)

アッカド王朝の第4代王。伝承では初代サルゴンの子とされる場合があるが,孫。彼は,東地中海岸から北メソポタミア,さらにはペルシア湾岸のマガンまで積極的に遠征し,アッカド王朝の最大版図をなした。ナラム・シンは,みずからを神とし,王の神格化の前例をつくり,「四方世界の王」を名乗ることで新しい王権観を導入した。山岳民族ルルブムを破った戦勝碑は有名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナラムシン」の意味・わかりやすい解説

ナラム=シン
Naram-Sin

南メソポタミアのアッカド王朝4代目の王 (在位?~前 2230頃) 。アッカドのサルゴンの孫。ザグロス山脈地方の未開民族を退け,アルメニアから東アラビアに進み,エラムを討ち,国土は地中海沿岸に達し,アッカド王朝の最盛期を迎えた。ルーブル美術館所蔵のスーサ出土のナラム=シンの『勝利の碑』はエラム人の征服を表わした浮彫彫刻として有名。

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百科事典マイペディア 「ナラムシン」の意味・わかりやすい解説

ナラムシン

古代メソポタミアのアッカド朝の王(在位,前2260年ころ―前2223年ころ,または前2270年ころ―前2233年ころ)。サルゴンの孫。バビロニアを統一,エラムを征服した。ナラムシン戦捷碑(せんしょうひ)はアッカド芸術を代表する逸品。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナラムシン」の解説

ナラム=シン
Narām Sin

生没年不詳
古代メソポタミアのアッカドの王(在位前23世紀)
アルメニア・東アラビア・エラムを征服して領土は地中海にまで広がり,四方世界の王を名のった。アッカド朝の最盛期を現出し,国王神格化のもとをつくった。スサで発見された王の戦勝記念碑は,芸術的にも傑作といわれる。

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世界大百科事典(旧版)内のナラムシンの言及

【アッカド】より

…この時代にバビロニア北部でセム人要素とアッカド語が支配的となり,以後この地がアッカド,後のバビロニア地方が〈シュメール・アッカド〉と呼ばれるにいたった。伝承の伝えるサルゴンの56年の長い治世,その子リムシュおよびマニシュトゥシュの計24年,後者の子で祖父サルゴンと並び称せられる大征服者ナラムシンの37年,その子シャルカリシャリの25年,計5代142年の治世年数は,ほぼ信頼しうる。1度の兄弟相続を除いて親子継承が行われ,かつそれぞれ相当長い治世年数を有したことは,各王の即位時や治世末期の宮廷陰謀とシュメール都市の大反乱,またたび重なる蛮族侵入にもかかわらず,5代100余年にわたって王国が維持されたことを示す。…

【シュメール美術】より

…この像はまた,当時ブロンズの鋳造技術が高度に発達していたことを証明する貴重な存在である。浮彫では〈ナラムシン王の碑〉(スーサ出土)がよく知られる。ナラムシン王の戦勝を記念するこの石碑は,縦長の石碑面をいっぱいに使いながら斜め上方への動きを出している巧みな構図,人物の肉体表現に見られる自然主義的傾向など,シュメール初期王朝時代の浮彫には見られない新しい感覚を示している。…

【バビロニア】より

…彼はシリアにも遠征し,〈上の海から下の海に至るまで〉の領域を支配下におさめ,従来の都市国家の枠をはるかに越えた帝国を築き上げた。 その子リムシュとマニシュトゥシュの代に,アッカド帝国は一時衰えるが,サルゴンの孫ナラムシンの治世になってサルゴン時代の栄光を取り戻した。ナラムシン(前2254‐前2218)は新しい王号〈四方(世界)の王〉を称して自己の支配権の大きさを誇った。…

【メソポタミア】より

…またこれ以後セム人がメソポタミア最南部地方にも広く住んだ。第4代王ナラムシンはさらに多くの外征を企て,王朝版図は最大となったが,南部都市を核とする大反乱が発生,また東方蛮族グティ人も王朝内に侵入を開始した。次王ののち王朝はグティ人侵入により混乱に陥るが,南部シュメール地方は比較的平和であり,とりわけラガシュは繁栄を享受していた。…

※「ナラムシン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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