ヌエル族(読み)ヌエルぞく(その他表記)Nuer

改訂新版 世界大百科事典 「ヌエル族」の意味・わかりやすい解説

ヌエル族 (ヌエルぞく)
Nuer

アフリカのスーダン共和国南部,ナイル川とその支流バハル・アルガザル川・ソバト川流域の平原に住む牧畜民ヌアー族とも呼ばれる。自称はナースNaath。1930年代にイギリスの社会人類学者エバンズ・プリチャードが調査し,三部作の民族誌を著した。本項の記述は主として彼の著作によるもので,30年代のヌエル社会のことである。

 ヌエル語は東スーダン諸語の西ナイル語系に分類されている。人口は30年代に20万であったが,60年代には30万に増えている。その中には隣接のディンカ族を相当数含んでいるが,彼らは社会的には差別されず,対等の地位を得ている。生業は男性による牛,ヤギ,羊の牧畜を中心とし,女性による雑穀類栽培でそれを補っている。搾乳は女性と未成年の仕事とされる。牛は経済的価値ばかりでなく,交換を通じての社会関係の設立・維持・回復,神格との交流の手段として,また精神的・美的満足の対象として,文化・価値の中心を成している。ナイル川の増水する雨季には土手などの高台の定着村に住み,減水する乾季には水を求めて平原に分散し,キャンプ生活をする。これは牛の移動を伴う移牧形式といえる。

 村は特定の出自集団を核とした親族姻族によって構成されるが,キャンプにはより広い範囲の人々が集まり,それぞれ分住する。家族は父系一夫多妻の形式をとる。ヌエル族は全体として政治的統一はなく,いくつかの部族(内部で紛争調停可能な最大政治単位)に分かれ,部族間ではしばしば戦闘が行われた。部族は地域的にいくつかの次元のセクションに分節し,最小単位が村落である。この地域分節に対応するのが父系クランとその内部におけるリネージ分節体系である。部族レベルでは一つの父系クランが優越的な地位をもち,第1次地域セクションではあるクランの最大リネージが優越するといった具合に,この対応関係は図のようにモデル化されている。

 地域単位のレベルが上位のほど,殺人などによる紛争の内部調停が困難になり,しばしば報復行動がとられるが,それは全面的な抗争ではなく,1人を殺し返すといった互酬性がみられる。通常解決は牛による賠償という形式をとる。この調停に大きな役割を果たすのが,ヒョウの皮を身につけた大地司祭で,大地を血で汚すと社会全体に災厄が降りかかるという観念をその権威の源としている。この司祭が対立集団の間を走ると戦闘は中止され,また加害者は彼の家を避難場所として用いることができる。ヌエルは非常に宗教的で,神クウォスに対して畏敬の念をもち,その怒りをなだめるために家畜の供犠を盛んに行う。供犠される牛は供犠者自身の分身であると考えられている。しかしクウォスは上界や下界の精霊としても姿を現す〈一にして多〉なる存在である。双子は鳥であると表現されるのは,鳥が上昇を通じて神に結びつき,双子もまた神の贈物であるという対応関係からくる論理的同一視であると分析されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヌエル族」の意味・わかりやすい解説

ヌエル族
ヌエルぞく
Nuer

南スーダン北部のナイル川沿岸に居住するナイル語系の民族。ヌアー族ともいう。人口約 150万と推定される。生業は牧牛を中心とし,農耕,漁労,狩猟,採集を伴う混合経済であるが,ウシが諸価値の中心となっている。雨季には川辺の小丘群上に散在するリニージに分かれて牧畜と農耕を営み,乾季には水を求めて牧草地へウシを追いながら移動する。リニージ群は多数の自律的な集団にまとまり,その自律集団が最大の地域社会,政治組織となる。各集団には高度に分節した代表氏族が存在し,政治的統合の中心となる。集団間および分節集団間に報復闘争がみられる。一夫多妻制をとるが,一方が子供の社会的父親の役割を果たすような女性間の結婚も認められている。至高神の崇拝があり,危機における予言者の役割も著しく,イギリス植民地軍の占領に対する激烈な抵抗闘争にはその力が大いにあずかっていた。エドワード・エバン・エバンズ=プリチャードの『ヌアー族』(1940)は,人類学研究に多大の影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内のヌエル族の言及

【ウシ(牛)】より

… 他方,東アフリカの牛遊牧民は,固有のしかたで牛を思考や表現の素材として用いている。スーダンのヌエル族,エチオピアのボディ族で典型的に認められるが,彼らは,多様な牛の身体模様のパターンを,色,模様のあり方についての微細で多様な分類によって区別して認識している。しかもその分類語彙(ごい)は,他の自然物の形容にも転用される基本的語彙群をなしている。…

【家畜】より

…いったいどのような固有名が付与されるかは,ときにこれら家畜への人の側からの関係意識を反映していることがある。 ヌエル族では牛は婚資として用いられる。また口論や暴力沙汰の代償として牛が支払われる。…

【死】より


[社会的代償]
 他界での第二の生という観念が十分に展開されていない文化(例えばアフリカの牧畜民社会)では,個人の死は子孫の繁栄とか名まえの継承など社会的な代償によって一種の救済を受ける。ヌエル族のあいだで幽霊婚として知られる慣習は,結婚をすることなく死んだ人物の名義で別の者が結婚することによって,そこに生まれた子どもを死者の子どもとする制度であるが,財産の相続など経済的な側面を別にしても,これによって死者は社会的な無化から免れることができるのであり,その意味で死という問題を社会制度のなかできわめて巧みに馴致(じゆんち)するものだといってよい。隣族のディンカにおいても,子どもをもつことは不死を達成する唯一の方法であるといわれている。…

【時間】より

… 民俗社会の時間の意味単位は,具体的活動や労働の一区切りを意味内容としており,近代社会において支配的な数量的意味しかもたぬ単位(秒,分,時間など)は顕著でない。東アフリカの牧畜民ヌエル族では,一日の時間の経過を示しできごとの時刻を参照する時計は,数量化された時計や太陽の位置ではなく,牛舎から牛を出す―搾乳―牛の放牧―ヤギや羊の搾乳―牛舎の掃除―牛を牛舎に戻す,などの一連の牧畜作業の区切りからなる〈牛時計〉であった。また民俗社会の暦の多くも,農事暦のように作業単位からなり,数量的な日付をもたぬ暦もある。…

【成年】より

…この霊的存在とのかかわりによって力を得て〈空虚〉は満たされ,男・大人になる第一歩を踏み出し,以後は日々の暮しの中で一人前の人間としてしだいに認められていくことになる。アフリカのスーダン南部の牧畜民ヌエル族では,集団的性格がずっと強く,14~16歳ころにムラごとに成年式があり,その後はムラを超えた部族単位の年齢集団に所属するのである。この儀礼で骨に達するほどの深い傷をつけて,額に一生残る瘢痕を形成し成人の明確な刻印とする。…

【亡霊婚】より

…多くは未婚のままか後継者なしで死んだ者のために,財産相続や祖先祭祀が途絶えることのないように行われる。アフリカの牧畜民ヌエル族では,男子はみな自分の財産の持分を得,結婚して新しいリネージを創設する権利をもっている。しかし,男があとつぎを持つ前に死んだ場合,その近親者の一人が,共有財産のなかから花嫁代償を支払って,死者の名義で妻を迎える。…

※「ヌエル族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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