日本大百科全書(ニッポニカ) 「パウンド」の意味・わかりやすい解説
パウンド(Ezra Weston Loomis Pound)
ぱうんど
Ezra Weston Loomis Pound
(1885―1972)
アメリカの詩人。10月30日、アイダホ州に生まれ、ペンシルベニア大学で、将来の詩人W・C・ウィリアムズやH・ドゥーリトルと交わった。ロマンス語および文学を学び、1909年イギリスに渡り、『ロマンスの精神』(1910)を著作。同地で先輩詩人イェーツと親交を結び、英詩や能についての興味を分かち合い、イェーツの序をつけた『日本の貴族演劇』(1916)を出版。またロンドンでT・E・ヒュームを中心とする若い詩人グループの会合に参加し、簡潔なイメージを重視するイマジズムの短詩運動を展開した。1912年、H・ドゥーリトル、オルディントンらと決めたイマジズム三原則は、「主観的と客観的とを問わず事物を直接に扱うこと、表現に寄与しないことばは絶対に避けること、そしてメトロノームのような定型律によらず自由な調べによって書くこと」であった。この原則にかなう詩を集めてアンソロジー『デ・ジマジスト』(1914)を刊行して、英米の詩壇に波紋を投じた。また、T・S・エリオットやジョイスら前衛詩人や作家の出版を助けた。しかし、しだいにイギリス文壇と相いれなくなり、詩集『ヒュー・セルウィン・モーバリ』(1920)を告別としてパリに渡り、1924年以降はイタリアに定住した。前から手がけていた長編詩『キャントーズ』の完成に集中し、『最初の30編草稿』(1930)、『11編の新詩編』(1934)を出した。オデュッセウスに倣って古今の社会を放浪するこの長編叙事詩は、現代社会に見失われた精神的支柱を求める政治詩であり、評論の『文化への手引き』(1938)とともに、鋭い文明批評になっている。第二次世界大戦中、ムッソリーニのファシスト政権を支持して、反米放送を行ったため、1945年に捕らえられ、ピサの米陸軍規律訓練所に監禁される。その間に、政治的夢想の挫折(ざせつ)と揺るがない信念を歌い上げた絶唱『ピサ詩編』(1948)が書かれ、ボーリンゲン賞を受賞。だが、彼自身の身柄はワシントンに護送され、精神障害と認められて13年間セント・エリザベス病院に軟禁される。その間に続編『鑿岩機(さくがんき)編』(1955)を刊行し、正しい社会の精神的基盤を歌い続ける。1958年にフロスト、T・S・エリオットらの助力で反逆罪の訴訟が却下され、イタリアに帰った。晩年には『玉座編』(1959)および『草稿と断編』(1970)が追加されて、現代詩で最大の長編詩を残して、1972年11月1日、ベネチアの病院で死んだ。
[新倉俊一]
『新倉俊一訳『エズラ・パウンド詩集』(1971・角川書店)』▽『E・パウンド著、沢崎順之助訳『詩学入門』(1979・冨山房)』▽『G・S・フレイザー著、佐藤幸雄訳『エズラ・パウンド』(1979・清水弘文堂)』
パウンド(Roscoe Pound)
ぱうんど
Roscoe Pound
(1870―1964)
英米法学史上の巨匠ともいうべきアメリカの法律家。ネブラスカ州に生まれ、ハーバード大学を卒業した。弁護士、裁判官を経て、ネブラスカ大学で教鞭(きょうべん)をとったが、1906年、全米法律家協会の年次総会で行った「司法に対する民衆の不満」と題する演説が反響をよび一躍有名になった。その後、ノースウェスタン大学、シカゴ大学に招かれ、1910年には母校ハーバード大学の教授となり、1947年まで在職した。この間、1916年から1936年までの長期にわたって法学部長を務めた。また抜群の記憶力をもち、大陸法思想にも明るかったばかりでなく、周辺諸科学にも精通していた。プラグマティストとしてホームズの継承者とみなされている。彼の法学の方法は社会学的法学sociological jurisprudenceとよばれ、判決にあたって、政治的・社会的な影響を十分に考慮に入れる現代アメリカ法学の発展に大きく寄与した。著作はきわめて多いが、そのおもなものには『法哲学入門』(1922)、『法律史観』(1923)、『コモン・ローの精神』(1921)がある。
[堀部政男]
『細野武男訳『社会学的法学』(1957・法律文化社)』