アイルランドの小説家。プルーストと並んで20世紀の小説革命にもっとも力のあった作家。
[出淵 博]
2月2日、ダブリンの収税吏の子に生まれる。すばらしいテノールの持ち主で冗談好きの父と、カトリックの信仰厚いピアノの上手な母とから、独自の言語感覚と音楽性を受け継いだ。名門のイエズス会系の学校クロンゴーズウッド・カレッジに入学するが、父の失職に伴う家運の衰退によって退学。のち給費生として、もう一つの名門校ベルベディア・カレッジに転校。ここでラテン語、フランス語、イタリア語を修得するが、聖職にはつかない決意をした。1898年ダブリンの大学ユニバーシティ・カレッジに進学。フロベール、イプセン、ハウプトマンに傾倒。1900年18歳で、イプセンの『われら死者目ざめる時』についての論文「イプセンの新しい劇」を『フォートナイトリー・レビュー』誌に掲載、イプセンから礼状をもらう。このことと、翌年アイルランド文芸劇場にみられる地方的偏狭性をついたパンフレット『騒乱の時代』を自費出版した事実から、ジョイスが若くして、普遍的なヨーロッパへの憧憬(しょうけい)をもっていたことがわかる。
1902年大学を卒業後、家計を考えて医師として身を立てようと医学校に進学するがすぐ中退、パリに出た。無一文の状態で文学を修業するが、このころ、彼の「内的独白」の手法に強い影響を与えることになるエドゥワール・デュジャルダンÉdouard Dujardin(1861―1949)の『月桂樹(げっけいじゅ)は切られた』を入手している。1904年、母危篤の知らせで帰国、祈ってほしいという死の床での母の願いを、すでに棄教しているという理由で拒み、このことでのちのちまで心をさいなまれた。この年、妻になるノラ・バーナクルという娘と知り合った。やがてダブリンを離れ、イタリア領ポーラ(現、クロアチア領プーラ)、トリエステ、ローマなどを放浪、創作活動を続ける。トリエステ時代に、英語の個人教授をした生徒のなかに富裕なユダヤ系イタリア商人エットレ・シュミッツがいたが、彼はジョイスに励まされイータロ・ズベーボの筆名で作品を発表することになる。その後ジョイスはダブリンには二度ばかり帰国するが、1912年、8年来書き続けていた『ダブリン市民』をめぐって、アイルランドの出版社との間がこじれてからは二度と故国の土を踏まなかった。第一次世界大戦中はチューリヒに滞在し、貧困と眼疾とに苦しむが、イェーツ、パウンドらの後援、『エゴイスト』誌の編集長ウィーバーHarriet Shaw Weaver(1876―1961)の資金的援助によって切り抜け、『若い芸術家の肖像』『ユリシーズ』をそれぞれ『エゴイスト』『リトル・レビュー』誌に連載した。1920年から19年間はパリ生活、第二次世界大戦のため1940年からチューリヒに移るが、翌1941年1月13日、十二指腸潰瘍(かいよう)のため死亡。
[出淵 博]
作品としては、叙情的で形式的に完璧(かんぺき)さをもつ詩集『室内楽』(1907)、フロベールに学んだ写実と細部描写からものの本質がひらめき出るいわゆる「エピファニー」の手法を用いた短編集『ダブリン市民』(1914)、芸術家としての天分の発見を文体自体の成長と合致させたユニークな教養小説である長編『若い芸術家の肖像』(1916)、中年の広告業者の1日を、ホメロスの『オデュッセイア』の枠組みに当てはめて描き出した神話的手法の長編『ユリシーズ』(1922)のほか、戯曲『追放者たち』(1918)、詩集『一つ一ペニーの林檎(りんご)』(1927)があるが、1923年から15年かかって完成し、さまざまな雑誌に分載した「進行中の作品」――『フィネガンズ・ウェーク』(1939)は、H・C・イアリッカーという泥酔男の一夜の夢のなかに人類史を封じ込め、G・ビコの円環状の歴史観によって体系づけたもの。新しい言語を創造することによって同時に新しい世界を創造しようという壮麗な試みであり、小説形式の極北を目ざしたものといえよう。また死後発見されたエロスに満ちたスケッチ集『ジャコモ・ジョイス』(1968)がある。ジョイスの文学上の実験はフォークナーらの英語圏作家にとどまらず、フランスのクロード・シモン、ロブ・グリエらヌーボー・ロマンの作家や『テル・ケル』の批評家、ガルシア・マルケス、カブレラ・インファンテら南米ラテン系諸国の作家たちに影響を与えた。
[出淵 博]
『出口泰生訳『室内楽』(1972・白凰社)』▽『海老池俊治・戸田基・小田島雄志他訳『世界文学大系67 ジョイスⅠ』(1976・筑摩書房)』▽『海老根宏他訳『世界文学大系68 ジョイスⅡ オブライエン』(1998・筑摩書房)』▽『伊藤整編『20世紀英米文学案内9 ジョイス』(1969・研究社出版)』▽『丸谷才一編『ジェイムズ・ジョイス』(1974・早川書房)』▽『丸谷才一著『6月16日の花火』(1986・岩波書店)』▽『大澤正佳著『ジョイスのための長い通夜』(1988・青土社)』▽『リチャード・エルマン著・宮田恭子訳『ジェイムズ・ジョイズ伝1・2』(1996・みすず書房)』
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アイルランドの詩人,小説家。ダブリンに生まれ,C.S.パーネル没落直後のアイルランド独立運動挫折期に育つ。イエズス会の教育を受け,聖職への道を勧められたが,ユニバーシティ・カレッジに進んだころから本格的に文学に志し,1902年ここを卒業すると,同年冬パリに赴いた。しかし貧困そのもののパリでの生活は長続きせず,03年母危篤の報で帰国し,私立学校の教師となった。04年6月,ノラ・バーナクルと結婚,再び祖国を去り,アドリア海沿岸のプーラで英語教師の職についた。この後25年間,09年と12年に自著出版のための短期間の帰国を除いては,ヨーロッパを転々としながらひたすら著作の生活を送った。
1907年詩集《室内楽》,14年閉塞的なダブリンに住む人々の挫折の諸相を描いた短編集《ダブリン市民》を出版。本格的な処女作というべきものは,アイルランド独立運動挫折期に育った少年が,家にも祖国にも宗教にも反逆して,己の運命を文学の世界に切り開いていこうとする姿をギリシア神話のダイダロスの姿と重ね合わせながら,内側から描いた《若き芸術家の肖像》(1916)である。幼児の内的経験の描写から始まるこの小説の斬新な手法は,19年にすでに芥川竜之介の注目を浴びている。さらに22年,フランスのE.デュジャルダンなどの内的独白の手法をさらに発展させた意識の流れを全面に押し出した大作《ユリシーズ》によって,20世紀文学最大の巨匠としての評価を得,昭和初期の日本のモダニズム文学,とくに伊藤整などによって代表される心理小説に多大の影響を与えた。ホメロスの《オデュッセイア》を下敷きにして,1904年6月16日のダブリンを,スティーブンとブルーム夫妻の3人の意識を中心に描いたこの作品は,最近まではその超リアリズムが重要視されてきたが,現在では従来の小説のキャラクターの一貫性とか,視点の整合性といったものを破壊している〈小説否定〉の側面が注目されている。そしてこの延長上に書かれたのが,800ページに及ぶ大作《フィネガンズ・ウェーク》(1939)である。睡眠中の意識,夢の世界の小説とでもいうべきもので,語彙,文章ともに多義多層的な小説であり,前衛文学の極致といえる。
執筆者:鈴木 建三
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…〈優美な屍が新しい酒を飲むだろう〉という文章ができあがり,以後この遊びは〈優美な屍cadavre exquis〉と呼ばれることになった。しかし現代文学が生んだ最大のノンセンス作品はジョイスの小説《フィネガンズ・ウェーク》(1939)であろう。ことば遊びを神話的次元にまで高め,〈現実〉の枠組みをまるごと組みかえてしまったこの奇作は,たしかに日常言語の常識からすれば〈ナンセンス〉あるいは〈狂気のたわごと〉にちがいない。…
…アイルランドの作家J.ジョイスの長編小説。1922年パリで出版。…
※「ジョイス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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