傑出した人物の精神病理的側面を検討し,それが彼らの創造活動に及ぼした影響や意義を明らかにしようとする研究をいい,〈病跡〉または〈病跡学〉と訳される。古代ギリシア以来の長い伝統をもつ〈天才と狂気〉論の流れを,精神医学の土壌で引きついだ形になっているが,これを19世紀の末から20世紀の初めにかけて精細な分析によって基礎づけたのはドイツの精神医学者メービウスP.J.Möbius(1853-1907)で,〈パトグラフィー〉という用語も彼の論文《シェッフェルの病気について》(1907)のなかで初めて使われた。メービウス以後,この方面はとりわけドイツ語圏を中心として発展をとげ,その間にS.フロイトらの精神分析学派,ヤスパースらの現象学派,ランゲ・アイヒバウムらの社会学派,クレッチマーらの体質生物学派などが活躍して,それぞれ独自の業績をあげている。彼らにより取り上げられた人物もはなはだ多岐にわたり,躁うつ病のゲーテ,精神分裂病(統合失調症)のヘルダーリン,てんかんのゴッホやドストエフスキー,進行麻痺のニーチェやシューマンなど,芸術,思想の分野を中心として,宗教,政治,科学の領域にまで広がっている。第2次大戦後,精神医学に人間学や深層心理学の考え方が浸透すると,〈病気の跡をたどる〉というイメージの強いパトグラフィーに一種の古めかしさをみてとる人が多く,他方では〈天才〉概念の衰退もあって,近年のヨーロッパではひところほどの活況はみられない。
日本では,1902年にメービウスのニーチェ研究が創刊まもない《日本神経学雑誌》に紹介されたのが始まりだが,この方面はとかく医学者の余技として軽視されがちで,式場隆三郎の大著《ファン・ホッホの生涯と精神病》(1932)など,いくつかの先駆的な業績はありながら,学問としての定着をみない時代が長く続いた。パトグラフィーが日本で市民権を得たのはやっと第2次大戦後で,わずかな研究者が集まって66年に日本病跡学懇話会(79年以後,学会)を創設し,毎年2回(84年以後,1回)の総会を開くとともに,その機関誌《日本病跡学雑誌》(隔年刊)を刊行しはじめたのが学問的出発といえる。このように専門の学会や機関誌をもつ国はほかにはなく,その点で日本にはパトグラフィーの発展の条件がそなわっているとも思われるが,そこで取り上げられる日本人は夏目漱石,芥川竜之介,三島由紀夫などおおむね明治以後の作家に限られていてヨーロッパのような広がりはない。とはいえ,日本で初めて挙げられた知見も少なくない。〈エピ・パトグラフィー〉の概念もその一つで,病理性が創造者自身ではなくその妻や同胞にあるケースを取り上げて,相互の関係や影響を解明しようとする。C.ラムとその姉,サッカレーとその妻,ピランデロとその妻,日本では高村光太郎と妻の智恵子,上林暁とその妻などの場合がそれに当たる。こうした発想にも現れているように,現代のパトグラフィーは,ただ病理的なものだけに視野を限るのではなく,創造者をより包括的にみていこうとする傾向が強く,その意味で〈パトグラフィー〉や〈病跡〉という名称は違和感を与えないでもない。
→狂気 →天才
執筆者:宮本 忠雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…これに応じたゾラはまる1年のあいだ毎日2時間ずつトゥールーズとその20人の助手たちの実験台になって,あらゆる検査をうけたが,ロンブローゾの述べるような病的兆候はなく,ただ強迫観念がわずかに認められただけだったという。 こうした個別の天才研究が,20世初めから病跡学(パトグラフィー)と呼ばれる独自の分野へと着実に発展していくわけだが,この方面の権威だった既述のランゲ・アイヒバウムは改めて天才と狂気の関係を検討し,これを肯定している。彼の調べによると,世界史上とくに有名な人物78人を選んだ場合,(1)一度は精神病の状態を示したもの37%,(2)強度の異常性格83%,(3)軽度の異常性格10%,(4)健康な者6.5%で,さらに最高の天才35人にしぼると,精神病的ケースは40%にも達するという(《天才,狂気,名声》1956)。…
※「パトグラフィー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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