アテネのアクロポリスに建つ,古代アテナイの守護神アテナ・パルテノスの神殿。パルテノンはアクロポリスの美化運動を推進した為政者ペリクレス,彫刻家フェイディアス,デロス同盟による豊かな財源,そしてペルシア人を打ち破った民衆の高揚した精神風土といった,好条件が重なり合って出現したもので,古代ギリシア文化の象徴的存在ともいえる。床面のわずかに盛り上がった湾曲,すべての柱の内部への傾斜など,視覚的な建築美も徹底的に追求されている。
パルテノンとは〈乙女の部屋〉の意で,元来はこの建物の主室である西の部屋だけの名称であった。前身の旧パルテノンは,前490年のマラトンの戦における勝利の後着工されたが,再来したペルシア人による前480年のアクロポリス焼打ちのため,その建設途中で破壊された。現パルテノンは,その基盤を拡張利用したもので,前447年着工,総監督をフェイディアス,設計をイクティノス,施工をカリクラテスが担当,前438年には落慶式と盛大なパンアテナイア祭が催された。すべてペンテリコン産の大理石で造られた周柱式神殿で,東西各8本,南北各17本のドリス式円柱の高さは10.43m,ステュロバテス(最上床面)の面積30.88m×69.50m,ナオス(内室)は東のヘカトンペドン〈百尺の部屋〉と西のパルテノン〈乙女の部屋〉に隔壁により二分され,それぞれプロナオス(玄関間)とオピストドモス(裏玄関間)を備えていた。主室である〈百尺の部屋〉にはフェイディアス自作の巨大な黄金象牙製立像,完全武装のアテナ・パルテノスが安置されていたが,4本のイオニア式の柱をもつ〈乙女の部屋〉の用途は不明である。最初につくられた装飾彫刻群(前448-前443)は東西各14面,南北各32面計92面から成り,メトープにはイオニア風の厚浮彫が施された。東西南北それぞれギガントマキア〈巨人族と神々の戦い〉,アマゾノマキア〈アマゾン族とギリシア人の戦い〉,ケンタウロマキア〈ケンタウロス族とラピタイ人の戦い〉,およびイリウペルシス〈トロイア陥落〉を主題にしている。現在鑑賞に耐えるものは南側ケンタウロマキアのうちの18枚程度である。第2期(前443-前438)につくられた装飾彫刻群は,ナオスの外壁上部全体を一周する,高さ約1m,長さ160mの薄浮彫のイオニア風フリーズで,約130mが残存している。4年に1度開催されたパンアテナイア祭の行列が主題である。第3期(前438-前433)のものは東西の三角破風群像で,等身大以上の丸彫彫刻によって構成され,主題は東が〈アテナの誕生〉,西が〈アテナとポセイドンによるアッティカの土地争い〉であった。東破風の両隅の約10体の彫刻や西破風の多数の断片などが残存している。
パルテノンは後5世紀に聖母マリアの教会に,15世紀中ごろにはオスマン・トルコのモスクとなったが,1687年にベネチア軍の砲弾によって破壊されるまではかなり良く保存されていた。1803-12年エルギン卿によって彫刻(エルギン・マーブルズ)のほとんどがイギリスに運び去られ,現在大英博物館の至宝になっている。
執筆者:福部 信敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代ギリシアの建築。アテネ(古代名アテナイ)のアクロポリスに建つ古典初期のもっとも優れた建築。対ペルシア戦争の勝利を感謝してアテネ市の守護女神アテネに捧(ささ)げた神殿。彫刻家フェイディアスの総監督のもとに設計はイクティノス、施工はカリクラテスが担当、紀元前447年に起工し、前438年ころ完成した。そのプランは、東西八柱、南北17柱、床面30.8メートル×69.5メートル、ドーリス式の周柱堂で、内部は東側にプロナオス(前室)と本尊を安置するナオス(内陣)、西側にオピストドモス(後室)とパルテノン(処女宮)の四室からなる。これらの内部の柱や梁(はり)は、外周の荘重なドーリス様式とは対照的に優美なイオニア様式を採用している。
神殿を飾る彫刻では、フェイディアス作の黄金と象牙(ぞうげ)の巨像アテナ・パルテノス(処女のアテネ)像が本尊として内陣に安置されていたほか、東西両破風(はふ)の東側に「女神アテネの誕生」、西側に「アテネとポセイドンのアッティカの支配権争い」の大群像彫刻を配し、屋根の下の四方を飾る92面のメトープには神話上の四つの物語、さらに内陣上部のフリーズには汎(はん)アテナイア祭の大行列が全長約160メートルにわたって浮彫りにされている。これらはいずれも古典初期の傑作である。
この建物はビザンティン時代の426年にハギア・ソフィア聖堂として内部が改修され、このとき本尊がコンスタンティノポリスに運ばれたとされる。トルコ占領時代(1458~1833)にはモスクに変えられ、1687年9月のベネチア軍の砲撃で、トルコ軍がここに収蔵していた火薬が爆発、フリーズの4分の3、28基の円柱などが崩壊した。今日、群像彫刻やメトープ、フリーズの浮彫りの大部分は、いわゆる「エルギン・マーブルズ」としてロンドンの大英博物館に、一部がアクロポリス美術館とパリのルーブル美術館にある。
[前田正明]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アテネの守護神アテナ・パルテノスの神殿。今日もアクロポリスにそびえ立つ。ペルシア戦争のとき破壊された旧神殿の跡に建立された。前447年に起工,前432年に落成。イクティノス,カリクラテスが建築を,フェイディアスが彫刻を担当した。全体としてドーリア式建築だが,内室外周上部はイオニア式のフリーズで飾られた。石材はすべてペンテリコン山の大理石。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…マネから〈画家の中の画家〉と絶賛される絵画に到達したのである。ベラスケスに対して,修道士の画家としてレアリスムと神秘主義を融合したスルバラン,マリア礼賛が異常な高揚を見せた時代にスペイン民衆の心をとらえた宗教画家ムリーリョ,ムリーリョと同時代人で,〈生の悲劇的感情〉の表現様式としてのバロックを代表するバルデス・レアルといった,スペインの美術行政の支配下にあった世俗の画家たちはいうまでもなく,若くしてイタリアに渡り,カラバッジョの明暗描法を継承発展させ,スペインの副王領ナポリで大成したJ.deリベラでさえ,スペイン王家の注文によって殉教図を数多く描いているという意味で,対抗宗教改革運動という制約内で制作した画家であったのである。
[ゴヤから現代へ]
こうした,美術と宗教の密接不可分な関係がかなりゆるやかになった時代に活躍したのがゴヤである。…
※「パルテノン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新