精選版 日本国語大辞典 「ギリシア美術」の意味・読み・例文・類語
ギリシア‐びじゅつ【ギリシア美術】
- 〘 名詞 〙 前一〇世紀頃~前一世紀頃までギリシアで栄えた古典主義美術。クレタ‐ミケーネ美術とエジプト、西アジアの美術の流れをひくもので、アルカイック、クラシック、ヘレニズムなどの段階に分けられる。
ギリシア美術とは,クレタ・ミュケナイ美術衰退後の前1000年ころから前1世紀末ころにかけて,ギリシア本土,南イタリア,エーゲ海周辺地方などで栄えた美術をさしていう。前12世紀ころからしだいにギリシアに侵入したドリス人は,先住のアカイア人の勢力をペロポネソス半島から駆逐し,クレタ的色彩の濃いミュケナイ文明の美術を完全に破壊した。こうしてギリシアは長い文化的暗黒時代に入ったが,この期間にギリシア人は自己の民族性に根ざした新しい美術を徐々につくり始めた。このギリシア美術は,同時代の古代エジプト美術が3000年間にわたってほとんどその様式を変えなかったのとは対照的に,初期の古拙・幼稚な段階から驚くほどの速度をもってその様式を発展させ,前5世紀,前4世紀ころには,西洋美術の永遠の〈典型〉とされる,クラシック美術を開花させた。このようなギリシア美術の偉大さの原因が,ギリシア人のもつすぐれた芸術的才能にあったことはいうまでもない。それと同時に,ものごとの判断の基準をつねに人間に置く人間中心の世界観,神々を美しい人間の姿として思い浮かべる宗教観,極端・過激なものを排して中庸・適度なものを求める調和感覚,人間の裸体を尊重する気風,美を数的・合理的法則性によってとらえようとする主知的態度などが,ギリシア美術の理想主義的性格の基礎になっていることも見のがせない。ただこの理想的な人体美追求の態度のために,ギリシア美術は一般に世俗性の強い美術のように誤解されることが多い。しかし彼らの彫刻の大半が神殿の礼拝像,神域の奉納像,墓地の記念像,神殿の装飾彫刻であり,工芸品の多くが奉納・葬祭用のものであり,また彼らの建築的努力がもっぱら神殿に注がれていた事実から考えても,ギリシア美術が,本来,古代オリエントや中世の美術と同様,非常に宗教的性格の強いものであったことが理解されよう。
ギリシア美術はその様式発展のうえから一般に次のように時代区分される。
幾何学様式とは,ミュケナイ美術が滅んだあとギリシア人が最初につくり出した美術様式で,この時代の陶器がおもに幾何学的・抽象的図形で飾られているところからこの名で呼ばれる。主要な装飾モティーフは,平行線,メアンデル,菱形,三角形,市松,同心円などで,ここにもギリシア人の美術に対する知的・合理的な態度がよくうかがわれる。陶器製作の中心地はアッティカで,葬祭用の精巧な大型陶器が,アテナイのケラメイコス墓地から大量に出土している。陶器以外には,テラコッタ,ブロンズ,象牙の小型像などが残っている。
→幾何学様式
幾何学様式の解体からペルシア戦争が勃発する頃までのギリシア美術の初期の段階を示す時代をいう。前7世紀には,動物,植物,空想的怪物などの装飾モティーフを用いた,いわゆる〈東方(オリエント)化様式〉の陶器が幾何学様式に代わって流行する。同様にオリエント,とくにエジプトの影響によって,前7世紀中ごろには,初めて大型の石造彫刻が成立する。前600年ころからは,直立裸体のクーロス(青年)像や着衣のコレー(少女)像が,奉納像や墓像として数多く作られた。初期の彫刻の姿はまだきわめて幼稚・素朴であるが,前6世紀を通じて芸術家の写実的関心は驚くべき速度で高まり,アルカイク後期の作品は非常に正確で有機的に構成された人体表現を示している。またすべての彫刻に共通するアルカイク・スマイルは,当時の芸術家が彫刻に生き生きとした人間的感情を与えようとする努力のあらわれであろう。
→アルカイク美術
ペルシア戦争による緊張した時代を背景に,クラシックにおけるギリシア美術の完成を準備する段階に入った時代をいう。彫刻の顔からはアルカイク・スマイルが消え,像の表情は厳しく,ときには沈鬱(ちんうつ)にさえなる。人体の骨格や筋肉組織の表現はきわめて正確になっているが,その〈動き〉はどことなく堅苦しく,流麗さに欠けるところがある。
ギリシア美術がその調和的・理想的形式を完成させた時代で,ペリクレスがアテナイの政権を手中に収めた頃からアレクサンドロス大王の没年ころまでをいう。クラシックclassicの呼名はラテン語のクラシクスclassicus(〈最上級の〉〈模範的な〉の意)から由来する(クラシクスは本来,クラシスclassis(ローマ市民の階級区分)における最上級層クラシキclassiciの形容詞形で,語意が転用されたもの)。この時代は一般には前5世紀後半の盛期クラシック(〈崇高な様式〉)と前4世紀の後期クラシック(〈優美な様式〉)とに区別される(この区別と命名はウィンケルマンによる)。盛期クラシックには,ペリクレスのアクロポリス復興計画に基づき,パルテノン,プロピュライア,エレクテイオンなどの壮麗な建物が完成し,彫刻では,フェイディアス,ミュロン,ポリュクレイトスらの巨匠が活躍した。前5世紀末のペロポネソス戦争,前4世紀の絶えまないポリス間の対立・抗争を通じて,人々の感情・思想はより現実的・人間的になり,宗教的関心もしだいに弱まった。この傾向を反映して,後期クラシックの彫刻家プラクシテレス,スコパス,リュシッポスらは,優雅で人間的情感にあふれる彫像を作った。
アレクサンドロス大王の没年ころから,プトレマイオス朝エジプト王国の滅亡までの時代をいう。アレクサンドロスの遠征の結果,これまでほぼギリシア人(ヘレネス)の間に限られていたギリシア美術は,小アジア,シリア,エジプトなど広くオリエント全土に拡大し,それぞれの土地の文化的伝統や歴史的事情と結びついて,多くの特色ある作品を生み出した。美術の中心地はペルガモン,エフェソス,ロドス,アレクサンドリアなど東方に移った。彫刻からはクラシック美術の理想性・宗教性が薄れ,現実生活に密着した世俗的性格が目だってくる。同時に日常的,個別的,激情的,醜悪,悲惨,異常なものが,冷たく写実的な眼でとらえられ,美術はしだいにギリシア的本質から離れたものへと変わっていく。
→ヘレニズム美術
執筆者:松島 道也
古代ギリシア都市は上市,要塞,聖域などの機能をもつアクロポリスと,その裾にひろがる下町から成っており,下町には民会,市場,各種の催しが行われる公共広場(アゴラ)を中心に,市民の住宅が立ち並んでいた。議会,行政,司法などの公共施設はアゴラの周囲に並設されるのが普通であるが,適度な斜面を必要とする劇場や,大面積を必要とする競技場や教育・体育施設などはアゴラから離れ,ときには市外に建てられることも多かった。町全体は市城壁で囲まれていた。ギリシア人がこれらの施設のために開発した建築の中で,最も重要なものは神殿であった。
神殿はギリシアの公共建築の中で最も古い遺構を残しており,その建築の様式はギリシアの他の建築の手本になったばかりでなく,いわゆる古典様式として,それ以後の西洋建築の規範となった。神殿の平面は単純なメガロン型で,奥行きの深い縦長長方形広間の神室(ナオス)と,その前面にナオスの側壁を延長したポーチ(プロナオス)から成る。プロナオスの正面には側壁の間に2本の柱を立て,玄関柱廊を形づくるのが普通で,この形式をイン・アンティス式と呼ぶ。側壁を正面まで突出させる代りに,側壁の前方にも柱を立て,正面に4本の柱が並ぶことがある。この形式を前柱式(プロステュロス式)と呼ぶ。ナオスの背面には何もないこともあり,またプロナオスと同形のポーチ(オピストドモス)がつけられることもある。このような神殿全体を取り巻くように,四周に列柱廊が造られている神殿は周柱式または周翼式(ペリプテロス式)と呼び,四周に2列の列柱が巡らされているものは二重周柱式(ディプテロス式)と呼ぶ。二重周柱式の内側の列柱が省略され,2スパン分の広い周柱廊を巡らしているものを疑似二重周柱式(プセウド・ディプテロス式)と呼ぶ。初期の神殿の壁は日乾煉瓦で造られるのが普通だったから,周柱廊は土壁を保護するため深く突き出した軒を支えることから発生したのであろう。
石造建築としての神殿遺構は前6世紀から見られる。それらは普通は3段の階段状基壇をもち,縦のフルーティング(溝彫)をつけた円柱を立てる。その上に桁に相当するアーキトレーブ(エピステュリオン),小壁に相当するフリーズ(ディアゾマ),壁面より突き出たコーニス(ゲイソン)をのせる。これら,柱の上にのる構造物全体をエンタブラチュアと呼ぶ。エンタブラチュアの形は,初期の木造屋根の構造に由来している。発端となった建築伝統が地域によって違っていたため,ギリシア本土やイタリア南部などではドリス式と呼ばれる建築が,小アジア西海岸ではイオニア式の建築が,並行して発展した。
ドリス式では円柱に20本の浅いフルーティングをつけ,フルーティングの境は鋭い稜線をなしている。柱身はエンタシスのゆるい曲線を描いて上の方が少し細くなっている。柱頭(キャピタル)は鏡餅を逆さにしたような形のエキノスと,正方形の厚い板(アバクス)を重ねた形をしている。アバクスの上にのるアーキトレーブは単純な角材で,最上部にタイニアと呼ばれる単純なモールディング(刳形(くりがた))がつけられる。また上にトリグリュフォスがのる所には,タイニアの下に6個の木栓のような形をした露玉装飾(グッタ)をつけたレグラがつけられる。フリーズには,やげん形の縦溝で3本の縦棒のように見えるトリグリュフォスと,ほぼ正方形の浮彫石板(メトープ)が交互に並べられる。トリグリュフォスの中心線は,柱の中心線上と柱間の中央に置かれるのが原則であるが,両端の柱の上にあるトリグリュフォスは,中心を柱中心とそろえるのではなく,フリーズの端に置かれることになっている。このため端のメトープが他より大きくなってしまうので,メトープの幅をそろえようとすると,両端の柱を少し内側に寄せる必要がある。これを隅の柱間の短縮と呼んでいる。屋根は切妻形であるため,正面には三角形の破風(ペディメント)があり,その内側のテュンパノン(タンパン)は神々の群像などで装飾される。ペディメントの両端と中央にはアクロテリオンと呼ばれる装飾彫刻がのせられていた。円柱とエンタブラチュアが上述のような部材で構成される建築のシステムをドリス式オーダーという。
イオニア式オーダーも基本的にはドリス式に似ているが,円柱には柱礎(ベース)があり,彫りの深いフルーティングの数は24本を標準とし,フルーティングの境に平たんな部分を残すこと,柱頭は左右に渦巻をもつ特殊な形を見せ,アバクスが薄いこと,アーキトレーブに3本の水平区分がつけられていること,フリーズにトリグリュフォスとメトープの区分はなく,連続した装飾浮彫帯になることなどが,ドリス式とのおもな相違点である。なおイオニア地方ではフリーズを欠くことが普通で,その代りコーニスの下に,密に並べられた垂木の先端のようなデンティル(歯状装飾)がつけられる。ドリス式に比べてイオニア式の細部は装飾が豊富で,優雅な印象を与える。
このほかに,アカンサスの葉や渦巻で装飾された柱頭を特色とするコリント式と呼ばれるオーダーもある。しかしギリシア時代のコリント式は柱頭が違うだけで,他はイオニア式とほとんど同じであった。
→オーダー
これらの神殿建築の理想は,建築を構成する各部材がそれにふさわしい完ぺきな美しさをもち,部材相互間,および全体と各部材の間に理にかなった均衡(シュンメトリア)を保ちつつ,周囲の自然と対立的に調和することであった。この理想はドリス式においては,オリュンピアのゼウス神殿,パエストゥムの第2ヘラ(〈ポセイドン〉)神殿(ともに前460ころ)などを頂点とする,前5世紀前半の神殿において達成された。バッサイのアポロン神殿(前450ころ以降),アテナイのパルテノン(前447)など,前5世紀後半の神殿では,早くもイオニア式との混交が始まり,その後,イオニア式に近い,より軽快な比例に変わってゆく。そして,ヘレニズム時代以後は,ドリス式神殿はほとんど建てられなくなった。
イオニア式神殿は,クラシック(古典)時代盛期には,アテナイのアテナ・ニケ神殿(前427),エレクテイオン(前421)などのほかには残存遺構が乏しい。再建されたエフェソスのアルテミス神殿(前356ころ),サルディスのアルテミス神殿(前350ころ),ディデュマのアポロン神殿(前313)などの巨大神殿,プリエネのアテナ神殿(前340ころ),マグネシアのアルテミス神殿(前175ころ)など有名な神殿はクラシック時代末期からヘレニズム時代に多い。コリント式神殿は小アジアのウズンジャブルチのゼウス神殿(前300ころ),アテナイのオリュンピエイオン(前174)など,ヘレニズム時代に入ってからである。
アゴラの周りに建てられる公共建築は,多くは前面に柱を立て並べ,三方を壁で囲った長大なホール(ストア)の形式をとっていた。列柱は正面だけのこともあり,中央にもう1列あるものもある。この場合,内部列柱の柱間は正面の柱間の2倍となっているのが普通である。またストアの奥壁にそって,事務所,商店,集会室などに使われる小部屋が並んでいることもある。ヘレニズム時代には2階建ての,いわゆるペルガモン風ストアが盛んに建てられた。アテナイの〈アッタロスのストア〉がその例である。ときには四方に建てられたストアが共通の中庭に向かって柱廊を開いていることもある。この場合は外部に向かって閉鎖的な列柱中庭(ペリステュロス)を構成することになる。ギリシア都市のアゴラはこのようなストア群で取り囲まれており,それぞれの個性をもったストアの,ほぼ同じ高さの開放的な列柱群が広場に秩序と統一感をつくり出すことになる。
市政の最高機関である長老たちの会議場(プリュタネイオン)は,公衆のための食堂と会議場をもっているが,議員数がせいぜい数十人であるから,その建物はヘレニズム時代に発展したペリステュロス住宅に似ている。数百人から千人近くの議員をもつ評議会場(ブレウテリオン)は,長方形広間の3方に階段席を設け,屋根のある小劇場に似た形をしており,演奏会場(オデイオン)とほとんど区別がつき難い。劇場は斜面を利用して鉢状の観覧席(テアトロン)を造り,中央に円形のオルケストラ(平土間。コロスの舞踏場で舞台の一部)がある。その奥に2階建ての建物(スケネ)が建つ。舞台(ロゲイオン)はその2階床面の高さに造られ,舞台の下および後ろは芝居の背景や楽屋として使われた。
最大でも人口5万を超えなかったと思われる古代ギリシア都市では生活に要する水は天然の泉に頼っていて,公共の泉は古くから建てられていたが,都市的規模の水道はヘレニズム時代以後のことであった。市内に東西,南北の直交道路を碁盤目状に通し,市内の敷地を聖域,公共用地,私有地に明確に区分する,いわゆるヒッポダモス風の都市計画は,前5世紀ころより普及し,やがてヘレニズム期の都市計画の基本となった。各街区は約15~20m角の宅地に細分され,1戸およそ220~300m2を占めるのが標準的であった。最も多く見られる住宅平面は,敷地の北側と東側,西側にコの字形に建物を建て,ほぼ中央にパスタスと呼ばれる広い廊下状の空間が東西方向にとられている。パスタスの南側中央は中庭(高級住宅ではペリステュロス)になり,アンドロン(客間),オエクス(居間)などの主要な居室はパスタスの北側に並べられていた。
執筆者:堀内 清治
ギリシアの建築,彫刻,絵画の中で最もギリシア的特徴をもつものは彫刻であるといわれる。おそらくそれは人間中心の彼らの世界観が,ここに最も純粋な形で表れているからであろう。ギリシア彫刻をその目的から分類するならば,神殿や聖所の礼拝像,神域に立てられる奉納像,死者への哀悼を表す墓像や墓碑浮彫,戦勝や競技の優勝を祝う記念像,神殿の破風やメトープ,フリーズを飾る建築彫刻などである。これからわかるように,ギリシア彫刻は本来ほとんどが直接・間接に神に奉仕する宗教性の強いものであった。彫刻の材料としては青銅(ブロンズ)と大理石が最も普通で,小型像には粘土(テラコッタ像)や象牙,ときには金やガラスなどが用いられた。石造彫刻では肌,頭髪,ひげ,口,衣装,刺繡などが鮮やかに彩色され,武器,冠,装身具などは別に金属でつくりつけられた。残念なことに,ギリシア彫刻で現存するものは比較的少ない。とくにクラシック時代の巨匠の手になる原作はほとんどが失われている。しかし,ローマ時代に作られた多数のギリシア彫刻の模作や大プリニウスの《博物誌》,パウサニアスの《ギリシア地誌》,その他の古文献や碑文などを手がかりにして,ギリシア彫刻の歴史はかなりのところまで再構成できる。
前10~前8世紀の幾何学様式時代には,青銅,テラコッタ,象牙の小型像が残るにすぎない。古文献によって,クソアノンxoanonと呼ばれる単純・素朴な木彫神像のあったことが知られるが,現存するものはない。本格的な大型の石造彫刻は,アルカイク時代の前7世紀中ごろエジプトの刺激によって成立した。デロス島出土の《ニカンドラの奉納像》やルーブル美術館蔵の《オーセールの婦人像》などは,最も初期の作例であり,その平板な形に木像のなごりをとどめている。
前7世紀末からアルカイク時代を通じて,多数の等身大あるいはそれ以上のクーロス(青年)像が作られた。アルカイク初期の作品には《スーニオンのクーロス》《メトロポリタンのクーロス》《クレオビスとビトン》の兄弟像などがあり,中期には《テネアのアポロン》,後期には戦闘中に倒れた兵士《クロイソスの墓像》などがある。初期の作品では,人体の把握はまだ未熟で,プロポーションは不自然,頭髪や手足の関節部などの細部の表現はまったく型にはまっているが,中期・後期になるにしたがって,身体各部はしだいに均斉のとれた有機的関連をもち,自然で正確な描写に近づいてくる。他方,着衣のコレー(少女)像も多く作られ,とくにアクロポリスの丘上で発掘された彩色の跡をとどめる一群の優雅なコレー像は魅力的である。アルカイクの彫刻には,このほかにもアクロポリスで出土した《ランパンの騎士》《子牛を担う人》《ザクロを持つ女神》,デロス島出土の《飛走するニケ》,サモス島出土の円柱状の《ケラミュエスの奉納像》などがある。これらの作品はいずれも身体の中央軸が一直線をなし,像の姿勢はつねにこの軸を中心に左右相称を守っている。神殿を飾る建築彫刻では,前6世紀初頭のコルフ島のアルテミス神殿破風の浮彫をはじめ,セリヌスのC神殿メトープ,アテナイのアクロポリスの《ヘラクレスとトリトンの格闘》の石灰岩破風と《神々と巨人の戦い》の大理石破風,デルフォイの〈シフノス人の宝庫〉のフリーズと〈アテナイ人の宝庫〉のメトープなどがあり,アルカイクの最終段階にはアイギナ島のアファイア神殿の破風群像《トロイア戦争》のような傑作が生まれている。
前5世紀前半の厳格様式時代に入ると,彫像の口もとから明朗なアルカイク・スマイルは消え,アクロポリスの《金髪の青年首部》や《エウテュディコス奉納の少女像》などのように,厳しく重苦しい印象が彫像の形姿全体から感じられる。人体の把握はアルカイクに比べて格段に正確になっているが,まだ次代の盛期クラシックがもつあの自由なのびやかさに達してはいない。しかし男性立像にはアクロポリスの《クリティオスの少年》に見られるように,直立像にわずかながら立脚と遊脚の区別が現れ,そのため像の中央軸はこれまでの垂直線から少しずつ湾曲し始めるのである。この時代の代表作には,2個の青銅像《デルフォイの御者》と《アルテミシオンのゼウス(ポセイドン?)》があり,浮彫には有名なルドビシ玉座の《アフロディテの誕生》がある。前460年ころ完成したオリュンピアのゼウス神殿の破風群像と12枚のメトープ浮彫とは,厳格様式の最後を飾る傑作である。
〈崇高な様式〉と呼ばれる前5世紀後半の盛期クラシックには,ミュロン,フェイディアス,ポリュクレイトスの3巨匠が活躍した。ミュロンは《円盤投げ》などの作品に見るように人体の激しい動きの中の一瞬をとらえることに優れ,フェイディアスは,古代最高の神殿作家の名にふさわしく,高貴・厳粛な彫像を制作した。また,フェイディアスがアクロポリス復興事業の総監督であったことから,パルテノン神殿の92面のメトープ浮彫,祭典行列を表した全長約160mのフリーズ浮彫,守護女神アテナの神話を扱った東西破風の群像の中に,彼の壮大な芸術的構想が反映していると見ることができる。アルゴス派の巨匠ポリュクレイトスは,〈コントラポスト(対比的均斉)〉の手法によって,男性立像の表現に古典的解決を与えた。彼はまた人体のプロポーションを研究して《カノン(基準)》を著し,このカノンに基づいて《槍をかつぐ青年》や《勝利の鉢巻を結ぶ青年》を制作した。前4世紀の後期クラシックに入ると,彫像の形姿はしだいにより優しく軽快なものに変わり,気品と自信に満ちた神の顔は,より人間的・情緒的な表情を帯びてくる。いわゆる〈優美な様式〉の成立である。この時代,アテナイのプラクシテレスは《クニドスのアフロディテ》において初めて女神を全裸の姿で表現し,《トカゲを殺すアポロン》や《オリュンピアのヘルメス》において,親しみあふれる人間的な神の形姿を創造した。パロス島出身のスコパスは,《ポトス(あこがれ)》や《狂乱のマイナス》などの作品で人間の激しい内面的感情の高まりを表すことに成功した。アレクサンドロス大王の宮廷彫刻家であったリュシッポスは大王のほか多数の肖像を作り,また競技選手を表した《アポクシュオメノス》では,大胆に彫像の前後の奥行き空間を表現している。
前4世紀末のアレクサンドロス大王の遠征の結果,彫刻の中心地はギリシア本土から,ロドス島,ペルガモン,アレクサンドリア,アンティオキアなどの東方に移った。クラシック時代の〈崇高〉〈優美〉な理想主義に代わって,彫刻家の現世的・写実的関心が高まり,未熟な幼児や盛りを過ぎた老人,黒人やガリア人のような異民族,それに世俗的,劇的,激情的,官能的なものが好んで主題に取り上げられた。日常的情景を写した《酔える老婆》《眠るサテュロス》,悲劇的な異邦人の最期を写した《瀕死のガリア人》,断末魔の苦痛を表す《ラオコオン》,力強い運動感にあふれる《サモトラケのニケ》,強い明暗効果の中で錯綜した闘争場面を表すペルガモンのゼウス祭壇浮彫《神々と巨人の戦い》などは,ヘレニズム美術の特徴をよく示している。前4世紀に始まるアフロディテの裸体表現は,この時代にとくに愛好され,有名な《ミロのビーナス》をはじめ《メディチのビーナス》《カピトリーノのビーナス》《キュレネのビーナス》などの立像や,前3世紀にドイダルサスDoidalsasが創始した《うずくまるアフロディテ》型の女神像が数多く制作された。しかし,その多くはかつての神性を希薄にし,女神の名のもとに成熟した豊満な女性の肉体を賛美するものに変わっていた。ギリシア彫刻は,その本来の宗教的性格を失うにつれて,しだいに退潮に向かったのである。
執筆者:松島 道也
ギリシア陶器はそれぞれの時代と装飾様式にしたがって,おおむね次の四つに分類される。第1期は前11世紀ころの原幾何学様式に続く前9世紀から前8世紀にかけてで,アテナイを中心に幾何学様式が著しい発展をみた。そのモティーフならびに表現は雷文,ジグザグ文,菱形文,波状文,網目文など硬直な連続文からなり,これらが器全面を埋めている。ディピュロンの墓地から出土したいわゆる〈ディピュロンのアンフォラ〉と呼ばれる高さ1mに及ぶ一連のアンフォラはその典型である。第2期は前8世紀から前7世紀末における〈東方化様式〉の時代で,この期は有翼獣や植物をモティーフとしたオリエント陶器の影響を強く受けた。これらの窯業の中心はコリントおよびエーゲ海域で,別名〈コリント式陶器〉とも呼ぶ。これらは先の幾何学様式に比べて全般に器形が小さくなり,一方,東方的なモティーフの動・植物の表現は著しく優美となる。第3期は前6世紀よりその世紀の末にいたるアッティカ黒絵式陶器の誕生で,ここに初めて太古の神話伝説をモティーフとした人物が装飾の主役となった。この世紀の後半アマシスの画家やエクセキアスらの優れた陶画家が活躍し,黒絵式陶器はアテナイを中心に著しい発達をみた。器の表面を褐色地で埋め図像を黒くシルエット風に描き,その細部を鋭い尖筆で形どる黒絵式の技法はすでにコリント式陶器に見られるが,図像の表現に物語性を導入し,ときには図像の人物の内的感情を表している点で次の赤絵式陶器と並んでギリシア人の人間観をよく表しているものといえる。第4期は前6世紀末の赤絵式の発明以後で,これはアテナイのアンドキデスの画家によって前530年に考案されたとされている。先の黒絵式とは逆に図像を黒い背景から浮かび上がらせ,細部を筆により濃淡をもって表すことにより,人間感情を自由に表現することが可能となり,またその主題も単に神話伝説に限らず,日常生活の一こまなど現実性を加えることによって著しく多様となった。その後エウフロニオスやエウテュミデースらの陶画家が出るに及んで,前5世紀中ごろより赤絵式陶器は黄金時代を迎え,これらはイタリア半島や黒海沿岸にまで多量に輸出された。
初期の段階では陶器の種類は比較的少なかったが,古典期以後,ギリシア陶器の器形はその用途に応じてほぼ30種を数える。これらのうち,アンフォラ,ペリケー,スタムノスは主としてブドウ酒,油,はちみつ,小麦などの貯蔵用の器,クラテル,プシュクテル,レベス,カンタロス,ディノスは酒宴用,キュリクス,スキュフォスは飲酒用の盃,小さなレキュトス,アリュバロス,アラバストロンは香油入れ,ただし前5世紀以降の白地レキュトスは葬祭用にのみ供せられた。口縁部が三葉形をなすオイノコエは水さし(または酒つぎ),垂直あるいは水平の把手のあるヒュドリアは婦人が泉から水を汲むための水甕,長頸のルトロフォロスとレベス・ガミコスは婚礼の花嫁用,円筒形の蓋付きのピュクシスは婦人用の化粧箱,そのほかに皿,鉢,碗などがあった。
成形はすべて轆轤(ろくろ)による。その最古の例はミュケナイ時代のトロイア第Ⅱ市から出土した陶器に轆轤の跡が見られる。ギリシアの轆轤は普通は木,テラコッタ,もしくは石で作られた直径60~70cmの円形ないし四角形の手轆轤で,徒弟の少年が師匠の指示に従って手で回した。陶器の装飾は赤褐色の地色と黒色の釉薬(うわぐすり)からなっているが,ギリシア陶器で一般に釉薬と呼ばれている光沢ある黒は同じ陶土から得られたもので,厳密な意味でのガラス質の釉薬ではない。焼成は一度に連続して3段階,すなわち酸化,次に還元,最後に再酸化の順で行われる。焼成温度はだいたい800~950℃と推察されている。
ギリシアの工芸は質・量ともに第1に陶器があげられるが,ほかにタナグラ人形をはじめとするテラコッタ小像,黄金細工,青銅器,彫玉,ガラス器,金・象牙細工(クリュセレファンティノス)などの優れた作品も少なくない。例えば青銅の技術では単に大彫刻に限らず,初期にはオリュンピア出土のグリフォン,兵士や馬の小彫像,鏡,ビクス出土の巨大なクラテル,黄金細工ではロドス島出土の打出しの黄金板,前5世紀の金・銀製の装身具などがあり,象牙の櫛,不透明・多彩色のガラス器など多くの優品をあげることができる。しかしその最大の出土品は1977年,テサロニキの南西70km,ベルジナVerginaのフィリッポス2世(アレクサンドロス大王の父,前4世紀中ごろ)の墳墓から出土したおびただしい数の財宝である。多種の宝石を象嵌した工芸品,青銅器,鉄器,ガラス細工などはいずれも精緻をきわめ,高い技術水準を物語る。
執筆者:前田 正明
近代ヨーロッパ人のギリシア美術に対する関心は,古代文芸の研究が盛んになるルネサンス時代からしだいに高まった。バチカンにあった《ベルベデーレのトルソ》や《アポロン像》,1506年ローマで発見された《ラオコオン》群像などが,ミケランジェロ,ラファエロらの美術家の創作やレッシング,ゲーテらの芸術理論に大きな影響を与えたことはよく知られている。その後も歴代の教皇はじめ,ボルゲーゼ,ファルネーゼ,バルベリーニ,キジなどのイタリアの名門,ヨーロッパ各地の国王,貴族,富豪らは競って古代美術品の収集に努めた。一方,17,18世紀ころにはギリシアを訪れる西欧の旅行者の数も増え,スポンJ.Spon,レベットN.Revett,スチュアートJ.Stuartらは旅行の見聞録や古代建築遺構のスケッチなどを発表し,ドイツのウィンケルマンは《古代美術史》(1764)その他の著作によってギリシア美術の歴史的・体系的研究の基礎を築いた。18世紀末には,それまで関心の対象にならなかったギリシア陶器(当時はエトルリア陶器と考えられていた)の収集が,ナポリ駐在のイギリス外交官ハミルトンW.Hamilton 卿によって始められた。19世紀初めイギリス外交官エルギン卿はパルテノンの彫刻を中心に大量の大理石作品を母国に運び(エルギン・マーブルズ),イギリスの建築家コッカレルらはアイギナ島のアファイア神殿やバッサイのアポロン神殿を発掘調査し,その装飾彫刻をすべて持ち去った。古代美術品の国外持出しが禁止されたのは,1830年ころ,ギリシアが激しい解放戦争のすえオスマン・トルコの支配を脱してから後のことである。75年ドイツの考古学者たちはオリュンピアにおいて,初めて近代的方法による発掘を始めたが,これをきっかけとしてアテネ(アクロポリス,アゴラ,ケラメイコス),デルフォイ,デロス,コリントス,ペルガモンそのほか大小の遺跡が,欧米諸国の考古学者の手でつぎつぎに発掘された。こうして19世紀以来ますます豊かになった美術資料に基づいて,H.ブルン,A.フルトベングラー,E.クルティウス,W.デルプフェルト,A.コンツェ,C.T.ニュートン,L.M.コリニョン,S.レナック,A.ミハエリスらの先駆的学者が,19世紀後半,ギリシア美術の基礎的研究に大きく貢献した。
執筆者:松島 道也
ラテン語のクラシクスclassicus,すなわち〈最上級の〉という語は,古代ローマ人が模範とすべき第一級のギリシアの文学・美術を指して用いたことに始まる。美術においては〈崇高〉〈優美〉な前5世紀,前4世紀の様式を範とする。このような古代ギリシア美術への憧憬はローマではすでにアウグストゥス帝時代に始まり,優れたギリシア彫刻が模倣され,またそれらの様式を典拠として多くの彫刻が制作された(グレコ・ロマン様式)。近世以降,静穏で端正な人間像を基調とする古代美術の様式ならびに古代の神話をモティーフとした作品が多数制作された。特にイタリア・ルネサンスは絵画や彫刻のモティーフに古代美術の理想化されたアポロンやビーナス像を好んで取り上げたばかりでなく,ミケロッツォやL.B.アルベルティ,さらに16世紀のパラディオらの建築においても古代建築の復活が見られる。このような古典古代への志向は17,18世紀ヨーロッパにおいて著しい発展をみ,いわゆる古典主義を生んだ。絵画ではJ.L.ダビッド,プリュードン,アングル,彫刻ではカノーバやトルバルセン,建築ではシンケルらが出て,古代ギリシアやローマ美術を模した優雅で気品のある作品を残した。18世紀末~19世紀アメリカでも,ギリシア建築復興の機運が見られた。このように人間を中心としたギリシア美術は理想的美の典型として,欧米の美術の中で繰返し取り上げられている。
執筆者:前田 正明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
エーゲ海諸地域に栄えたミケーネ文明が衰退したのち、紀元前10世紀ごろからギリシアがローマに征服されるまで、ほぼ9世紀にわたってギリシア本土ならびにバルカン半島、小アジア、南イタリアなど植民地諸地域に開花した美術。ギリシア美術は、初期の段階では明らかにエジプトや小アジア、ミケーネなどの先進美術の影響を受けており、これらを自らの芸術的資質のなかに統合同化することによって、さらに調和、統一、均整による人間の理想美を追求した。これらの主題と様式はローマに直接受け継がれ、ルネサンスに至ってヨーロッパ美術の「古典」として栄光の座を確立した。
[前田正明]
ギリシア美術は通常、その様式の相違から次の五つの時代に区分される。
(1)幾何学様式期(前10世紀末~前8世紀中ごろ) この時代はまだ石造の大彫刻は存在せず、青銅やテラコッタの小像が制作されたにすぎない。陶器の装飾文様に初期の硬直な幾何学文様が描かれているところから一般にこの時代の美術を幾何学様式とよぶ。
(2)東方化様式期(前720ころ~前650ころ) 先進のオリエント諸地域との交易によって、幾何学様式とは異質のスフィンクスや鹿(しか)、小鳥、植物の帯状文などの東方的なモチーフが伝えられ、陶器や金工品を飾った。これらの様式はロードス島やエーゲ海の島々、コリントにおいてとくに顕著にみられる。
(3)アルカイック期(前650ころ~前480ころ) アルカイックとは「太古」「始まり」archēに由来する。最初にギリシア的な特質を創造した時代で、ギリシア本土に大理石や青銅の大彫刻が制作されるようになった。これらの彫像の口元にはいわゆる「アルカイック・スマイル」とよばれる微笑が示されている。この時代にギリシア本土の各地に石造の巨大な神殿が造営され、四周に柱廊を巡らす神殿様式が完成した。
(4)クラシック(古典)期(前450ころ~前330ころ) パルテノンの造営からマケドニアのアレクサンドロス大王の没年に至る時期で、哲学・文芸の面でも黄金期を迎えたが、ギリシア美術はアテネを中心に未曽有(みぞう)の発展を遂げ、調和と理想美を追求した。彫刻の分野では、様式の相違から古典前期(前5世紀)と古典後期(前4世紀)に分ける。
(5)ヘレニスティック期(前330ころ~前30ころ) アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシア美術は小アジア、シリア、エジプトなどオリエントに伝播(でんぱ)移行し、東方文化と融合した新しい様式を生み、現実性と世俗化が顕著になったが、やがてギリシア世界はローマの支配下に入って終わりを告げる。
[前田正明]
ギリシア建築の典型は公共建造物にある。ギリシア人は早くから都市計画に熱心で、碁盤状の都市プランの中心に、神殿、劇場、市民の広場のアゴラを配し、学校や体育館、競技場、墓廟(ぼびょう)などのモニュメンタルな建造物をつくった。ミレトス、プリエネ、ピレエフスなどは古代の都市計画に基づく都市として知られる。
[前田正明]
ギリシア建築を代表するもので、水平の梁(はり)と垂直な柱による単純荘重な構成と美しい比例に基づく様式は、ローマ時代のアーチ型建築様式とともに、西洋建築の基本的形態となっている。
ギリシアの神殿は神の住まいであり、神像を安置するための建造物であって、その中で儀式や祭礼を行う場所ではない。したがって、ローマ時代のバジリカやキリスト教の聖堂とは異なり、つねに外から見た美しさ、外的視覚性に重点が置かれている。破風(はふ)を埋める彫刻やフリーズの浮彫りはすべて外側に彫刻されている。
初期の神殿は木造で、壁面に粘土や日干しれんがが用いられていた。現存するギリシア最古の神殿の一つオリンピアのヘラ神殿(前7世紀中ごろ)の列柱は荒々しい石灰岩が用いられているが、その1本は木であったことが2世紀の文献に記されている。
神殿の原型は、ミケーネ時代の広間を中心にしたメガロン様式から発展したもので、建築プランは長方形、東を正面とする切妻(きりづま)屋根をもち、神像を安置する長方形の内陣(ナオス)とその前室(プロナオス)、そして背面に後室(オピストドモス)を配する。もっとも初期の形式は、正面を除く3面を壁で囲み、正面の壁端の柱(アンタエ)の間に2本の柱を配しただけの簡素なもので、代表作例にデルフォイの「アテナイ人の宝庫」や「シフノス人の宝庫」がある。さらに正面に4柱を配したプロスティロス、前後にそれぞれ4柱を配したアンフィ・プロスティロス、内陣を一重の列柱で囲んだペリプテロス、二重の列柱で囲んだディプテロスへと発展する。アルカイック期から古典期の神殿の多くは一重周柱式のペリプテロスで、アテネのパルテノンはその代表的な遺構である。ディデュマのアポロン神殿はディプテロス形式である。ヘレニスティック期に入ると、一重周柱の柱が内陣の壁に組み込まれたプセド・ペリプテロス(シチリアのアグリジェントのゼウス神殿)、二重周柱式の内側の列柱を省いて内陣と列柱の間を広くとったプセド・ディプテロス(マグネシアのアルテミス神殿)などの変型が現れる。
神殿建築でもっとも重要な部分は柱と梁を構成する部分で、これを柱式(オーダー)とよび、形状の相違からドーリス式、イオニア式、コリント式に分けられる。
ドーリス式は、柱が直接基壇(スティロバテス)の上に立ち、溝彫りのある柱は太く、上部が細く、柱身には胴張り(エンタシス)が目だつ。柱頭(キャピタル)は皿型のエキノスの上に正方形の頂板(アバクス)が置かれる。軒下のフリーズはメトープとトリグリフォスに分けられ、メトープにはしばしば浮彫りが施されている。ドーリス式建築は早くからギリシア本土、南イタリアのギリシア植民都市に多く、現存する遺構としては、上述のオリンピアのヘラ神殿、デルフォイやコリントのアポロン神殿(前6世紀中ごろ)、オリンピアのゼウス神殿(前5世紀前半)、アテネのパルテノン神殿(前447~前438ころ、部分的にイオニア式を採用)などがある。
イオニア式は、小アジアのイオニア地方におこった様式で、柱がドーリス式に比べて細く長く、柱底部には柱礎が加えられ、柱頭には左右に相対する二つの渦巻形がある。フリーズはドーリス式のような区分がなく、絵巻物風の連続浮彫りが施されていることが多い。エフェソスのアルテミス古神殿(前550ころ)、アテネのエレクテイオン(前421~前405ころ)はその好例である。
コリント式は、アカンサスの葉を2段に重ねた柱頭をもつ以外はイオニア式と大きな違いはなく、前5世紀後半バッサイのアポロン神殿に用いられたのが最初で、ヘレニスティック期以後にオリエントを中心に発展した。
ギリシアの神殿はそれぞれに個性と表情があるが、一般にドーリス式は単純荘重で男性的であり、イオニア式は優美典雅、女性的で、コリント式は華麗円熟、豪奢(ごうしゃ)といえよう。このほか神殿建築にはデルフォイ、オリンピア、エピダウロスなどにみられる円堂(トロス)がある。
[前田正明]
劇場は普通、丘の斜面を利用して扇形のすり鉢型につくられている。その形式は扇形に広がる階段状の観客席(テアトロン)と、すり鉢の底の部分にあたる中心部の円型の舞踏場(オルケストラ)、オルケストラの背面に2階建ての舞台兼楽屋(スケネ)が設けられている。この形は音響効果がよく計算されており、上部の観客席まで台詞(せりふ)が届くようになっている。アテネのディオニソス劇場は現存するギリシア最古の劇場の一つで、エピダウロスの劇場(前350ころ)は往時の完全な姿を今日にとどめている。
[前田正明]
市民生活を重視したギリシアでは、市の公共広場であるアゴラを中心に多くの公共建造物が建てられた。市の議事堂であるブーレウテリオン、役所であるプリネタイオン、市民の散歩や買い物の場である列柱廊(ストア)、男性の憩いの場のレスケ、女性の社交場でもある水汲(みずくみ)場などがあった。また青少年のための施設としてはギムナシオン、パライストラ、スタディオンがある。ギムナシオンは競走、跳躍、円盤投げ、やり投げなどの屋外練習場で、中央に長方形の中庭を設け、周囲に長い柱廊がある。パライストラは今日の体育館に相当し、レスリングや拳闘(けんとう)などが行われ、中央に正方形の中庭、四方を列柱で囲み、後方に脱衣場や浴場など大小さまざまの部屋が設けられていた。スタディオンは細長い馬蹄(ばてい)形もしくは長方形の競走場で、長さが1スタディオン(約185メートル)あり、丘の斜面を利用して観客席が取り囲んでいる。オリンピアのクロノスの丘の南部にあるスタディオンは前6世紀につくられたギリシア最古のもので、ゼウスを記念して行われる4年に一度の祭典、古代オリンピックの主競技場であった。
公共建造物に比べて、一般住宅は日干しれんがと木の粗末なものであった。前5世紀末から前4世紀にかけてのオリントスの住居跡から、中庭に面して男性用と女性用の居間、台所、浴室、物置などが発掘され、当時の一般住宅のようすをうかがうことができる。
[前田正明]
ギリシア彫刻の起源は明確ではない。古代の記録ではクソアノンとよばれた木彫の神像があったと伝えられるが、神殿の建築装飾を含め、初期の段階ではなんらかの宗教的な目的で制作されたと思われる。ギリシア彫刻の素材には木、石灰岩、大理石、ブロンズ、テラコッタ、黄金と象牙(ぞうげ)、鉄などが用いられた。このうち木は気候的に保存に耐えず、金と象牙は高価なために残存せず、鉄は腐食し、ブロンズは武器などに改鋳され、今日残っているのは主として石像、テラコッタ像で、ブロンズ彫刻も少ない。このうち石像はすべてが一石彫りでなく、頭部、腕は別につくり、鉛や目釘(めくぎ)であわされているものが少なくない。また初期には全面もしくは部分的に彩色され、アクロポリス美術館のポロス(石灰岩の一種)の群像彫刻や着衣の婦人像には、当時の明るく美しい彩色が残されている。
現存する最古のものに、前8世紀の中ごろから前7世紀初めに制作された、5センチメートルから10センチメートルの人物や動物の小彫像がある。ミケーネ時代とは異質の、幾何学様式時代とよばれるこの時期の、硬直で図式的なブロンズの小像に、クレタ島出土の「マンティクロスの奉納像」(ボストン美術館)やオリンピア出土の「戦士」があり、テラコッタの小像ではボイオティア出土の彩色の女神像がある。
[前田正明]
アルカイック期にはエジプトやオリエントの影響で、前7世紀中ごろから大理石やブロンズの等身大かそれより大きな像が制作された。これは神殿建築の誕生とほぼ同時代で、デロス島の「ニカンドラの奉納像」(アテネ国立考古博物館)や「オーセルの婦人像」(ルーブル美術館)はその最古の作例とされている。
続いて前600年前後からアッティカやペロポネソス半島、エーゲ海地域で、大理石あるいはブロンズによる等身大かそれ以上のクーロスとよばれる青年像とコレーとよばれる少女像が多数制作された。クーロス像は全裸で左足を一歩前に踏み出し、両手を腰に当てて直立する姿態で表されており、エジプト彫刻の影響が強い。一方、コレーはつねに着衣で、片手を胸に当てるか、キトンのひだをつまむ姿で表現される。初期のクーロス像にはスニオン出土のクーロス像、デルフォイ出土の「クレビオスとビトン」の兄弟像があり、コレー像では、アテネのアクロポリスに寄進された多数の婦人像が有名である。クーロスは生命感あふれる強健な男性の筋肉の表現に、コレーは女性の肌と衣服のひだに美しさが求められた。アルカイック・スマイルはこの時期のすべての像の口元にみられ、像に生き生きとした表情を与えている。しかしペルシア戦争(前500~前479)以後はこの微笑が消え、重々しい真剣な表情に変わる。デルフォイのブロンズの「御者」やアルテミシオン沖から発見されたブロンズの「ポセイドンもしくはゼウス像」(アテネ国立考古博物館)、オリンピアのゼウス神殿の破風彫刻などは、アルカイック期から古典前期に向かう過渡期の厳格様式の傑作で、緊張したこの時代の精神を反映している。
[前田正明]
この期に制作された彫像はすべて単純かつ明晰(めいせき)な形式に整えられ、調和と均整をもった高い精神性を示している。古典前期を代表する彫刻家ミロンは人体の運動の緊張の瞬間をとらえようとした。有名な「円盤投げ」(ローマ時代の模刻)は動中静の一瞬をとらえた傑作である。ミロンのあとアテネで活躍したフェイディアスは、ブロンズや黄金と象牙による多くの神像を制作し、「神々の像の制作者」と称せられた。パルテノンの「アテナ・パルテノス」、オリンピアの「ゼウス座像」「アテナ・レムニア」は彼の代表作といわれるが、原作は1点も残っていない。しかしフェイディアスの監督で造営されたパルテノンの破風群像浮彫りは彼の様式を伝える傑作として名高い。またこの期に活躍したもう1人の巨匠ポリクレイトスは、人体の各部分の比例を数的に算出し、それを『カノン』(規範)という書にまとめた。「槍(やり)を担ぐ青年像」や「勝利の紐(ひも)を結ぶ青年像」はこの比例に基づいて制作されたといわれる。このほかこの時代の優れた彫刻家にクレシラス、アルカメネス、アゴラクリトス、パイオニオスらの名があげられる。
古典後期には、より人間的な神々がモチーフとなり、人間の心理を追求し、崇高さよりも優美さが求められた。この時期を代表する作家に「クニドスのアフロディテ」によって優美な女性像を追求したプラクシテレス、彼とは対照的に人間の深い内面性をとらえたパロス島出身のスコパス、アレクサンドロス大王の宮廷彫刻家で大王の肖像彫刻を制作し、八頭身の男性の理想像を創造したリシッポスがある。
[前田正明]
古典後期の優美なあるいは激しい表現様式は次のヘレニスティック期に極限に達した。美術の中心はギリシア本土を離れ、エジプトのアレクサンドリア、アンティオキア、小アジアのペルガモンなどに移り、東方の多様な民族や文化との接触によって、題材は拡大し、世俗的な日常生活や人間の苦悩や醜い面をも視覚化した。有名な「ラオコーン」(バチカン美術館)、ペルガモンのゼウス大祭壇の浮彫り(ベルリン、ペルガモン美術館)、「サモトラキのニケ」(ルーブル美術館)はこの時代の不安と動揺を率直に表現している。古典期の均整のとれた調和美の象徴でもあったアフロディテ像は、この時代になると跪座(きざ)したり振り向く姿となって、より官能的で自由奔放な姿態を展開した。
[前田正明]
ギリシア時代の絵画はごくわずかな例を除いてほとんどが失われ、古代の文献、陶画(壺絵(つぼえ))と、ヘレニスティック期の様式を受け継ぐポンペイ、ヘルクラネウムなどのローマ期の作品を通してその概略を知りうるにすぎない。前7世紀末に建立されたテルモスの神殿を飾ったメトープの絵(アテネ国立考古博物館)は、現存する最古の作例で、神話を主題とし、黒、白、赤、黄で彩色されている。またフリジアのゴルディオン出土の壁面断片はテンペラ画法を用いて青、赤、緑で彩色された前6世紀後半の貴重な作例である。他方、文献によれば、タソス生まれの画家ポリグノトスPolygnōtosは前470年以降アテネで活躍し、アガタルコスAgatharcosは悲劇の舞台背景を描いたことで知られる。さらに、同時代の画家アポロドロスApollodōrosは陰影画法を研究して陰影画家(スキアグラフォス)とよばれた。前4世紀のころヘラクレイア出身のゼウクシスZeuxisがエフェソス出身のパラシオスParrhasiosと競作したとき、ゼウクシスの描いたブドウを小鳥がついばみにきたと伝えられる。
ローマ時代のフレスコ画やモザイク画には、前4世紀から前3世紀のギリシア絵画を模したものが多く、ポンペイ出土の「ペルセウスとアンドロメダ」の壁画は前4世紀のアテネの画家ニキアスNikiasの作品を模したものとされる。同じくポンペイ出土の有名なモザイク画「イッソスの戦い」(ナポリ美術館)も前300年ころのエレトリアの画家フィロクセノスの模作として知られている。ヘレニスティック期の絵画のモチーフはきわめて多様で、神話、伝説のほか、風景画、風俗画、静物画が描かれている。
[前田正明]
ギリシア工芸の華といわれる陶器の最古のものは前10世紀から前8世紀と推定され、アテネのケラメイコスの墓地から出土している。これは原幾何学様式で同心円や帯状の直線が描かれている。前8世紀以降、陶芸はアテネを中心に著しい発展をみせ、「ディピロン様式」とよばれる帯状の雷文、菱(ひし)形、卍(まんじ)を描いた幾何学様式が誕生した。一方、前8世紀から前7世紀にかけて港湾都市コリントを中心に窯業が盛んになり、コリント陶器はオリエントのロータスや架空の動物をモチーフとし、赤、白など多彩な彩色と、細部を線刻することで美的効果を高めた。前6世紀に入るとアッティカ地方では陶器の絵付に神話や伝説を取り上げた黒絵式陶器が誕生、コリント陶器にかわって主導権を得、リドス、ネアルコスらの優れた陶画家が活躍した。この期を代表するエクセキアスExēkiasは英雄アキレウスとアイアスを描いたアンフォーラ(バチカン美術館)や酒神ディオニソスの航海を描いた杯(ミュンヘン古代美術館)などに細密画風な精緻(せいち)な描写を採用することによって黒絵式陶器を最高の水準に高めた。黒絵式陶器は赤褐色の地に黒でシルエット風に画像を塗りつぶし、目や口、衣装の細部を鋭い尖筆(せんぴつ)で掻(か)き落とした陶器をいうが、これに対し前350年ごろ、黒絵式と反対に、図像を赤素地のまま残し、背景を黒で塗りつぶす赤絵式が現れた。赤絵式は細部を筆で描くため、より自由な表現を可能にし、パンアテナイア(パナテナイア)のアンフォーラなどの特殊な陶器を除いては、ほとんどが赤絵式となった。これらアッティカの赤絵式陶器に筆を振るった陶画家は、エウフロニス、ブリュゴスBrygos、マクロンら今日名を知られているだけでも二百数十人を数える。またこれら赤絵式陶器とは別に葬祭用の白地陶器レキトスがアッティカを中心に制作された。
このほか美しい色彩の婦人像タナグラ人形が前4世紀から前3世紀に大量に制作されたが、これらテラコッタの小像は当時の風俗を知るうえで興味深い。
[前田正明]
ミケーネ時代の華麗な金製品、印章、杯、象眼(ぞうがん)細工の後を受けて、ギリシア時代になるとブロンズが金工芸の主流を占めるようになり、武器や馬具、壺などの容器、家具、鏡など多方面に使用され、打出し、鋳型、線刻、象眼など多様な技法が駆使された。これらのなかでもとくにドドナ出土の前550年ごろの騎士の小像、フライパン、水差し、兜(かぶと)(以上アテネ国立考古博物館)、グリフォン頭部(オリンピア美術館)、アフロディテとパンの美しい線彫りのある鏡(前4世紀中ごろ・大英博物館)をはじめ、貴金属による装身具など、いずれもギリシア工芸の高い水準を示す。
[前田正明]
『村田数之亮著『ギリシアの陶器』(1972・中央公論美術出版)』▽『水田徹編『グランド世界美術3 ギリシアとローマの美術』(1975・講談社)』▽『村田潔編『大系世界の美術5 ギリシア美術』(1976・学習研究社)』▽『W・H・シューフハルト著、水田徹訳『西洋美術全史2 ギリシア美術』(1978・グラフィック社)』▽『村川堅太郎編『世界の文化史蹟3 ギリシアの神殿』(1978・講談社)』▽『沢柳大五郎著『ギリシアの美術』(岩波新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…本項では,ローマ美術を,古代ローマ人が支配した地域における美術活動と規定することとする。 前5世紀までのローマ美術は,エトルリア美術およびマグナ・グラエキアのギリシア美術の影響を強く受け,いまだ独自性を有しておらず,その活動も活発ではなかった。このような状況をストラボンは,〈昔のローマ人は,美しさに気を配ることはなく,より大きなもの,より必要なものに心を奪われた〉と記している。…
※「ギリシア美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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