ビャーゼムスキー(英語表記)Pyotr Andreevich Vyazemskii

改訂新版 世界大百科事典 「ビャーゼムスキー」の意味・わかりやすい解説

ビャーゼムスキー
Pyotr Andreevich Vyazemskii
生没年:1792-1878

ロシア詩人批評家公爵。ロシアにおけるロマン主義の最も代表的な宣伝普及者の一人。プーシキンの親友で,彼にバイロン意義を説いた。初期の詩は古典主義的・知性的要素を多くとどめているが,1820年代後半にはロマン主義的モティーフをうたったすぐれた抒情詩(《滝》(1825),《波立ち》(1829)など)を数多く書いた。30年代に入るとチュッチェフレールモントフに通ずる思索的・厭世主義的な詩(《ふさぎの虫》《憂愁》(ともに1831)など)も書き始めた。プーシキンの死後はプーシキン的詩風を伝える詩を作り続けた。40年代から60年代の彼の詩は時代の変化を忠実に反映しているという点で文学史的に重要である。彼とプーシキンとの往復書簡は,すぐれた文体エスプリによって名高い。官吏としてワルシャワに勤務したことがあり,ポーランド文学の翻訳がある。1820年代から70年代までの文壇内幕や社会風俗を活写した《古い手帳》(1883-86)は,この時代の貴重な記録である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビャーゼムスキー」の意味・わかりやすい解説

ビャーゼムスキー
びゃーぜむすきー
Пётр Андреевич Вяземский/Pyotr Andreevich Vyazemskiy
(1792―1878)

ロシアの詩人、批評家、公爵。1810~20年代にプーシキンや後のデカブリストと交わり、官僚制度に批判的であったが、のちに宮廷に近づき、56~58年は検閲の責任者を務めた。63年以後はほとんど外国に暮らし、ドイツで死んだ。詩壇への登場は1808年からで、初期の市民詩、風刺詩ではデカブリスト詩人に近い。新旧文体論争ではカラムジンを支持、ロマンチシズムを擁護し、擬古典主義を排した。年とともに政治的信条、文学観ともに保守化したが、多岐のジャンルにわたる詩風は軽妙で変わらず、回想記『手帳』(1883~86)は19世紀前半の社会文化誌として史料的価値も高い。

[島田 陽]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビャーゼムスキー」の意味・わかりやすい解説

ビャーゼムスキー
Vyazemskii, Pëtr Andreevich

[生]1792.7.23. モスクワ
[没]1878.11.22. ドイツ,バーデンバーデン
ロシアの詩人,批評家。公爵の家に生れた。 1807年以後孤児となり,N.カラムジンの保護を受け,文学的に感化された。 A.プーシキンらとともにロマン主義を掲げて「アルザマス会」を結成し,保守派の「ロシア文学愛好者協会」に対抗した。 40年代以降 V.ベリンスキーの文学思想に反対するなど保守的な立場をとった。詩『ペテルブルグ』 Peterburg (1818) ,『聖なるルーシ』 Svyataya Rus' (48) などがある。

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