ドイツとオーストリアを統合し,すべてのドイツ人を包含する一つのドイツ統一国家を建設しようとする立場。歴史的には1848年の革命の過程で現れ,オーストリアの排除もやむなしとする〈小ドイツ主義〉と対立した。大ドイツ主義は元来ドイツ人の自然な民族感情に発しており,実際48年の革命では,最初はすべての人が〈大ドイツ主義者〉であったといえる。しかし当時は〈ドイツ〉の範囲さえ定かではなく,そこには一部は異民族をも支配する多数の〈ドイツ〉諸国家があっただけだったから,〈大ドイツ主義〉は当初から難問に遭遇した。たとえばフランクフルト国民議会でつくられた統一ドイツ憲法は,新ドイツ国の国域を旧ドイツ連邦の領域としており,これはドイツ系オーストリアを〈ドイツ〉に含めたことで〈大ドイツ主義〉の立場に立つものであったが(一般に信じられているように〈小ドイツ主義〉的憲法だったのではない),この〈大ドイツ主義〉は二つの矛盾をかかえていた。一つは旧ドイツ連邦の領域にボヘミア,モラビアが入っていたことで,その地の住民であるチェコ人は,いわば勝手に〈ドイツ人〉扱いされたことに激しく反発した。もう一つは,これによって,当時ドイツ連邦外のハンガリーや北イタリアまでも支配していたオーストリアが,〈ドイツ〉に属する部分と属さない部分に分断されることで,これに対してはオーストリア政府が,オーストリア全体国家それ自体の統一を守る立場から激しく反発した。したがって一般にそう信じられているように〈大ドイツ主義〉をもってオーストリア中心の立場とする理解は誤っている。オーストリア政府の立場は,全オーストリアが一つの統一国家であり続けるとともにドイツの指導国となろうとする〈大オーストリア主義〉であった。49年3月オーストリア全体国家の不可分なることを宣したオーストリア憲法が発布されたことによって,〈大ドイツ主義〉の実現は不可能となり,国民議会の大勢は〈小ドイツ主義〉に傾くことになる。ただしその場合も,オーストリアの反対を無視して〈大ドイツ主義〉的憲法を議決することにより,事実上〈小ドイツ主義〉を選んだのである。
革命の失敗後も,ドイツ統一問題をめぐってプロイセンとオーストリアの主導権争いが続く間,反プロイセン・親オーストリアの政治家はしばしば〈大ドイツ主義〉を掲げ,これはカトリックの南ドイツに多くの支持者を見いだした。しかしオーストリアが民族混交の国家であり続ける限り〈大ドイツ主義〉は実現の可能性をもちえず,結局66年の普墺戦争によるオーストリアの〈ドイツ〉からの排除と,71年の〈小ドイツ主義〉的ドイツ帝国の建設を甘受するほかはなかった。その後この問題はドイツ系オーストリアとドイツとの合邦(アンシュルス)の問題として論じられることになるが,1938年ヒトラーが武力によって合邦を強行し,これを〈大ドイツ主義〉の実現と宣伝したため,〈大ドイツ主義〉という言葉は,現在はあまりよい印象を与える言葉ではなくなっている。
執筆者:坂井 栄八郎
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19世紀なかば、オーストリアを中心としてドイツの政治的統一を実現しようとした立場。当時なお30余の領邦諸国家に分裂していたドイツでは、一刻も早く統一を実現し、近代的国民国家に脱皮することが焦眉(しょうび)の課題であった。その際、統一の方法をめぐって、大ドイツ主義と小ドイツ主義とが対立した。前者は、旧神聖ローマ帝国の栄光をとどめるオーストリアを盟主として中欧に大ドイツ連邦を建設しようとし、後者は、オーストリアを除外し、プロイセンの指導を主張するものであった。しかし、多民族国家として多くの民族の独立運動を内包し、すでに崩壊の危機に瀕(ひん)していたオーストリアにとって、ドイツの国民的統一運動を指導する大ドイツ主義の実現は、事実上不可能に近く、「一八四八年の革命」(三月革命)に際してドイツ統一問題を審議したフランクフルト国民議会では、小ドイツ派の現実路線が多数を制した。60年代に入ってからも、大ドイツ主義は、プロイセンの専横に反感をもつ南西ドイツ諸邦の間で根強い支持を得ていたが、66年のプロイセン・オーストリア戦争でプロイセンが圧勝したことにより、終止符を打たれた。
[良知 力]
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19世紀のドイツ統一運動における一潮流で,オーストリアのドイツ人居住地域とボヘミアを含め,ほぼ旧神聖ローマ帝国の全領域を統合する大ドイツを建設しようとするもの。1848年の革命(三月革命)においては小ドイツ主義と対立,その後66年のプロイセン‐オーストリア戦争でオーストリアがドイツから排除されたことで大ドイツ主義は実現の可能性を失ったが,オーストリアとドイツの合邦願望はその後も消えず,それがのちにナチスの「大ドイツ主義」プロパガンダに利用された。
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… 議会は6月オーストリアのヨーハン大公を帝国摂政とするドイツ中央政府を樹立したのち,憲法の審議に入った。憲法はドイツ諸国を連邦制的に統一するとともに〈ドイツ国民の基本権〉を定めようとし,このうち〈基本権〉の部分は48年12月に完成して直ちに発布されたが,統一ドイツ国の国制に関しては〈大ドイツ主義〉と〈小ドイツ主義〉の対立が生じて審議は紛糾した。しかしドイツ系オーストリアをその他のオーストリア領(ハンガリー,北イタリアなど)と切り離してドイツ国に含めようとする〈大ドイツ主義〉は,その間に態勢を立て直したオーストリア政府によって拒否され,議会は結局実質的に〈小ドイツ主義〉の道をとって,49年3月憲法を可決するとともにプロイセン国王を世襲のドイツ皇帝に選んだが,国民主権に基づくこの〈小ドイツ〉的帝冠はプロイセン国王自身によって拒否されて,議会の全事業は宙に浮いてしまう。…
※「大ドイツ主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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