デジタル大辞泉
「佐伯祐三」の意味・読み・例文・類語
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さえき‐ゆうぞう【佐伯祐三】
- 洋画家。大阪出身。東京美術学校油絵科卒業後渡仏して、ブラマンクに師事。鋭い感覚と繊細な神経で主としてパリの風物を数多く描いた。帰朝後滞欧作を出品して二科賞を受けたが、再渡仏して客死。代表作「靴屋」「ガス灯と広告」。明治三一~昭和三年(一八九八‐一九二八)
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佐伯祐三
さえきゆうぞう
(1898―1928)
洋画家。明治31年4月28日、大阪で光徳寺の住職の次男として生まれる。北野中学校4年生のころから赤松麟作(りんさく)の画塾でデッサンを習う。1917年(大正6)中学卒業の秋、画家を志して上京し、川端画学校で藤島武二(たけじ)の指導を受け、翌年東京美術学校西洋画科に入学、在学中の21年に池田米子(よね)(後の洋画家佐伯米子)と結婚。23年美術学校を卒業して、翌年1月パリに着き、グランド・ショミエールの自由科に通い始める。やがて里見勝蔵にブラマンクを紹介され、このフォーブ画家の啓示と強い影響を受けるほか、ユトリロにも感動している。25年サロン・ドートンヌに『靴屋』ほかが入選。翌年3月に帰国し、里見、前田寛治(かんじ)らと「一九三〇年協会」を結成して第1回展を開き、同年秋の二科展には滞欧作19点を特別陳列して二科賞を受けた。『下落合(しもおちあい)風景』『滞船』を連作するが、日本の風土と自己の画風が一致せず、シベリア鉄道経由で27年(昭和2)9月パリにふたたび戻って、サロン・ドートンヌに『新聞屋』ほかを出品し、翌年にかけて盛んな制作活動を行った。第二次パリ時代の画風の特色はカリグラフィック(書法的)な表現主義的線描の駆使であり、『ガス灯と広告』ほかに、鋭い神経と奔放ながらも洗練度の高い筆勢を生かしている。またモランへ写生旅行し、重厚な寺院や風景を描くが、過度の制作による疲労から健康を害し、室内で『郵便配達夫』などを制作した。しかし結核に加えて神経衰弱が進み、パリ郊外のエブラール精神科病院に入院し、昭和3年8月16日に30歳の生涯を閉じた。
[小倉忠夫]
『阪本勝著『佐伯祐三』(1970・日動出版部)』▽『朝日晃解説『現代日本美術全集9 佐伯祐三』(1971・集英社)』
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佐伯 祐三
サエキ ユウゾウ
大正・昭和期の洋画家
- 生年
- 明治31(1898)年4月28日
- 没年
- 昭和3(1928)年8月16日
- 出生地
- 大阪府西成郡中津村(現・大阪市大淀区)
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科〔大正12年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 二科賞〔大正15年〕「レ・ジュ・ド・ノエル」
- 経歴
- 大阪の名刹・光徳寺住職の次男。17歳頃油絵に興味を持ち、赤松麟作の指導を受ける。大正6年上京し川端画学校で藤島武二についてデッサンを学ぶ。7年東京美術学校に入学。9年22歳で池田米子と結婚。12年渡仏、翌年ヴラマンクに絵を見てもらったことを契機として、フォービズムに傾倒する。また、ユトリロからも影響を受ける。14年サロン・ドートンヌに「コルドヌリ(靴屋)」が入選。15年帰国し、里見勝蔵らと“1930年協会”を結成、二科展にも「レ・ジュ・ド・ノエル」など滞欧作品19点を出品。昭和2年中央美術展に出品し、会友に推され、東京で個展も開催。シベリア鉄道を使って、同年9月再びパリへ。同年11月サロン・ドートンヌに「新聞屋」「広告のある家」が入選。3年、30歳の若さでパリに客死した。パリの裏町をモチーフに街頭風景の中に自己表出を求めつづけた。代表作に「酒場」「村の教会堂」「モンマルトル付近」「白い家」など。
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佐伯祐三
さえきゆうぞう
[生]1898.4.28. 大阪,中津
[没]1928.8.16. フランス,パリ近郊ヌイイシュルマルヌ
洋画家。大阪府中津村の光徳寺住職の二男に生まれる。中学校時代より油絵を赤松麟作に学び,1917年川端画学校で藤島武二に師事。1918年東京美術学校に入学。卒業後の 1923年フランスに渡り,翌 1924年モーリス・ド・ブラマンクに師事。1925年サロン・ドートンヌに『靴屋(コルドヌリ)』を出品し入選。翌 1926年帰国し,前田寛治らと一九三〇年協会を結成し,第1回展に滞欧作 11点を出品。また,二科展(→二科会)に滞仏作品 19点を特別出品,二科賞を受賞した。1927年妻子とともに再び渡仏。主としてパリの街をモチーフに激情的な,しかしときに孤独な情感を鋭い奔放な筆致で描いた。晩年,表現主義的傾向はますます先鋭になったが,病を得てパリ郊外で夭折。主要作品『レ・ジュ・ド・ノエル』(1925),『人形』(1925頃),『雪景色』(1927),『ガス灯と広告』(1927),『モランの寺』(1928),『郵便配達夫』(1928)。
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佐伯祐三 (さえきゆうぞう)
生没年:1898-1928(明治31-昭和3)
洋画家。大阪市東淀川区に生まれ,中学在学中に大阪で赤松麟作(1878-1953)の赤松洋画研究所に学び,川端画学校を経て,1923年東京美術学校を卒業,前年に結婚した米子(旧姓池田,洋画家。1903-72)とともに渡仏。ブラマンクについてフォービスムの影響をうけ,またユトリロの抒情的作風をもとりいれて,神経の鋭い激情的な,またメランコリックな情感あふれる筆致で,パリの街景を盛んに描く。25年サロン・ドートンヌに《靴屋》が入選。翌年3月帰国し,同年の第13回二科展に滞欧作を初出品して特別出品扱いを受け,二科賞を受賞した。前田寛治らと一九三〇年協会を結成,その第1回展に滞欧作19点を出品したが,日本の風景の違和感から制作に苦しみ,27年再渡仏,制作に熱中し,表現主義的傾向を強めた。しかし肺患と神経衰弱のためパリで夭折した。代表作は前記《靴屋》(石橋美術館),《テラスの広告》(1927,ブリヂストン美術館)など。
執筆者:匠 秀夫
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佐伯祐三【さえきゆうぞう】
洋画家。大阪生れ。北野中学在学中に赤松麟作に学び,卒業後上京して川端画学校に入門,次いで東京美術学校に入学した。1922年卒業し,渡仏。ブラマンクに師事して大きな影響を受け,パリの裏町を粘りのある暗い色彩で描いた。1926年帰国し,里見勝蔵,前田寛治と〈1930年協会〉を創立,二科展(二科会)にも出品したが,1927年再びパリに赴き,翌年激しい制作活動のうちに病没した。妻の米子も画家。
→関連項目山口長男
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佐伯祐三 さえき-ゆうぞう
1898-1928 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治31年4月28日生まれ。大正12年妻の米子(よねこ)とともに渡仏。ブラマンク,ユトリロの影響をうけた。パリの街頭風景をえがき,14年「靴屋の店」がサロン-ドートンヌに入選。15年帰国し,前田寛治らと一九三○年協会を結成。同年滞欧作品で二科賞受賞。昭和2年再渡仏し,3年8月16日パリで客死。31歳。大阪出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「下落合風景」「ガス灯と広告」など。
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佐伯 祐三 (さえき ゆうぞう)
生年月日:1898年4月28日
大正時代;昭和時代の洋画家
1928年没
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