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洋画家。明治31年4月28日、大阪で光徳寺の住職の次男として生まれる。北野中学校4年生のころから赤松麟作(りんさく)の画塾でデッサンを習う。1917年(大正6)中学卒業の秋、画家を志して上京し、川端画学校で藤島武二(たけじ)の指導を受け、翌年東京美術学校西洋画科に入学、在学中の21年に池田米子(よね)(後の洋画家佐伯米子)と結婚。23年美術学校を卒業して、翌年1月パリに着き、グランド・ショミエールの自由科に通い始める。やがて里見勝蔵にブラマンクを紹介され、このフォーブ画家の啓示と強い影響を受けるほか、ユトリロにも感動している。25年サロン・ドートンヌに『靴屋』ほかが入選。翌年3月に帰国し、里見、前田寛治(かんじ)らと「一九三〇年協会」を結成して第1回展を開き、同年秋の二科展には滞欧作19点を特別陳列して二科賞を受けた。『下落合(しもおちあい)風景』『滞船』を連作するが、日本の風土と自己の画風が一致せず、シベリア鉄道経由で27年(昭和2)9月パリにふたたび戻って、サロン・ドートンヌに『新聞屋』ほかを出品し、翌年にかけて盛んな制作活動を行った。第二次パリ時代の画風の特色はカリグラフィック(書法的)な表現主義的線描の駆使であり、『ガス灯と広告』ほかに、鋭い神経と奔放ながらも洗練度の高い筆勢を生かしている。またモランへ写生旅行し、重厚な寺院や風景を描くが、過度の制作による疲労から健康を害し、室内で『郵便配達夫』などを制作した。しかし結核に加えて神経衰弱が進み、パリ郊外のエブラール精神科病院に入院し、昭和3年8月16日に30歳の生涯を閉じた。
[小倉忠夫]
『阪本勝著『佐伯祐三』(1970・日動出版部)』▽『朝日晃解説『現代日本美術全集9 佐伯祐三』(1971・集英社)』
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洋画家。大阪市東淀川区に生まれ,中学在学中に大阪で赤松麟作(1878-1953)の赤松洋画研究所に学び,川端画学校を経て,1923年東京美術学校を卒業,前年に結婚した米子(旧姓池田,洋画家。1903-72)とともに渡仏。ブラマンクについてフォービスムの影響をうけ,またユトリロの抒情的作風をもとりいれて,神経の鋭い激情的な,またメランコリックな情感あふれる筆致で,パリの街景を盛んに描く。25年サロン・ドートンヌに《靴屋》が入選。翌年3月帰国し,同年の第13回二科展に滞欧作を初出品して特別出品扱いを受け,二科賞を受賞した。前田寛治らと一九三〇年協会を結成,その第1回展に滞欧作19点を出品したが,日本の風景の違和感から制作に苦しみ,27年再渡仏,制作に熱中し,表現主義的傾向を強めた。しかし肺患と神経衰弱のためパリで夭折した。代表作は前記《靴屋》(石橋美術館),《テラスの広告》(1927,ブリヂストン美術館)など。
執筆者:匠 秀夫
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