プエブロ文化(読み)プエブロぶんか

改訂新版 世界大百科事典 「プエブロ文化」の意味・わかりやすい解説

プエブロ文化 (プエブロぶんか)

北アメリカ南西部の北部高原地帯に発展したアメリカ・インディアン(プエブロ族)の先史文化。アナサジ文化後半期に比定され,バスケット・メーカー文化に次ぎ,スペイン人による植民当時まで継続した。経済基盤はトウモロコシ,豆,カボチャの栽培を中心とする農耕活動にあった。乾燥地帯であるため,水利に意が注がれ,ダム,灌漑水路,テラスの建設による集約的農耕が営まれた。ワタの栽培とその織物の製作,多彩色土器の製作,各種のかご類とサンダル類の製作などに特徴づけられる。狩猟用具として弓矢が普及し,小型尖頭器が多数出土している。埋葬は屈葬位が多く,決まった墓域は存在しなかったようである。集落アドベ(日乾煉瓦),石,木材壁土などで造られたアパート式集合住宅からなる。プエブロ文化Ⅰ期(700-900)には,先行するバスケット・メーカーⅢ期の半地下式竪穴住居が平地式の集合住居へ移行する。Ⅱ期(900-1100)には,集落は散在する傾向を示し,石積みの壁をもつ数室のアパート式住居と半地下式の宗教的建造物(キバkiva)の組合せが出現する。Ⅲ期(1100-1300)の集落は人口集中の傾向を示し,大集落が築かれた。とくに,チャコ・キャニオン内のプエブロ・ボニートPueblo Bonito遺跡は,半月形のプランをもち,外側にはアパート式住居が築かれ,中央部の広場周辺には大小多数のキバがある。つぎのⅣ期(1300-1700)には集落の分布域が縮小し,少数の大集落に人口が集中する傾向が強まった。Ⅲ期から始まる人口集中の傾向は,アサパスカン系インディアンの南下,集落間の抗争気候の乾燥化による水不足などに原因がもとめられているが,定説はない。16世紀半ばにスペイン人の探検隊と初めて接触したのは,プエブロ文化Ⅳ期の担い手であった。おもな遺跡群の分布地は,メサ・バーデ国立公園(コロラド州),キャニオン・デ・シェイ(アリゾナ州),チャコ・キャニオンおよびリオ・グランデ川上流域(ニューメキシコ州)である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プエブロ文化」の意味・わかりやすい解説

プエブロ文化
ぷえぶろぶんか
Pueblo

北アメリカ南西部の北部地方、アナサジ亜領域(現在のニュー・メキシコ、アリゾナ両州の北部、およびコロラド、ユタ両州の南部地方)にバスケットメーカー文化に次いで発展した先史文化。Ⅰ期(約1300~1100年前)からⅣ期(約600~300年前)に分けられる。新大陸独自の農耕体系、アドベ(日干しれんが)や石積みの大規模集落に特徴づけられる。

 16世紀以降スペイン人の植民地建設に伴い文化は変化したが、現在に至るまでその統一性は維持されている。もっとも発展したのはプエブロⅢ期(約900~600年前)で、渓谷の崖(がけ)に形成された窪(くぼ)みや平地に石積みの集合住居を建設した。とくにチャコ・キャニオンのプエブロ・ボニート遺跡やメサ・バード国立公園のクリフ・パレス遺跡は3~4階建ての住居と宗教的建造物であるキバKivaからなる防衛的な大集落である。農地は集落の外に設けられ、天水利用と水路による灌漑(かんがい)の両方がとられた。地下式のキバを中心に複雑な宗教儀礼が発達していた。

[小谷凱宣]

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百科事典マイペディア 「プエブロ文化」の意味・わかりやすい解説

プエブロ文化【プエブロぶんか】

米国のプエブロ・インディアンの文化。バスケット・メーカー文化後,700年ごろ出現,現代に及び,5期に分けられる。I,II期(プエブロ発展期)は700年―1100年ごろで,土器を用い,小村落を形成。III期(大プエブロ期)は12―13世紀末ごろで,彩色土器を使用し,大村落を形成した。13世紀末―1700年ごろのIV期には,西欧文明の浸透を受けながらも固有の生活様式を維持したが,以後現代に及ぶV期に至って全く衰退した。→プエブロ

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