日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロレタリア美術」の意味・わかりやすい解説
プロレタリア美術
ぷろれたりあびじゅつ
美術も芸術の一部門としてプロレタリア階級に奉仕すべきものであるとの立場から、政治的イデオロギーを宣伝するために制作された美術。プロレタリアの思想と感情を反映し、労働者・農民などの生活を描き、その闘争精神・希望・欲求・努力などを表現するとともに、支配者の圧制・虚偽・腐敗などを暴露的に描き出す。絵画、彫刻、漫画、ポスター、挿絵など、その表現様式は一貫してイデオロギー的、テーマ本位、写実的、アジ・プロ(扇動・宣伝)的である。
ソビエト連邦時代においては、主としてロシア革命直後の一時期に主張された。大衆運動と深く結び付いていたため、示威運動でのプラカードやちらし、あるいは祭典での建物装飾などをおもな発表舞台とした。しかし、その大部分は大衆啓蒙(けいもう)の名の下に、リアリズム美術の安易な俗化として現れ、今日ではほとんど評価されていない。もっとも、その一部にはロシア・アバンギャルド芸術と称せられ高く評価されているものも含まれているが、現在ではプロレタリア美術と区別されている。
ソ連ではプロレタリア美術の衰退後に、いわゆる社会主義リアリズム理論が主導権を握っていた。
[木村 浩]
日本のプロレタリア美術
第一次世界大戦前後から1920年代末期にかけて、意識的、組織的なプロレタリア美術が多くの国に発生、それらはおおむね各国の共産党機関誌を中心に展開された。
日本では先駆的現象として、1903年(明治36)創刊の『平民新聞』とその継続運動への、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、小川芋銭(うせん)、竹久夢二、小杉未醒(みせい)(放庵(ほうあん))らの芸術家の参加がまずあげられる。第1回メーデーが開かれた1920年(大正9)には、未来派芸術協会と社会主義同盟が結成されるが、同年10月開催の、橋浦泰雄(やすお)、望月桂(けい)らの黒燿(こくよう)会第1回展が最初のプロレタリア美術運動であった。翌21年2月創刊の『種蒔(たねま)く人』以降、文学その他のプロレタリア文化運動の展開のなかで、その一翼を担おうとする意識を高めた。24年、アクション、未来派、マボ、DSDなどのアバンギャルド派による三科会が結成されるが、翌年春の第1回展と秋の第2回展を通じて、これら新傾向急進美術運動の総決算的解体をきたし、その分裂からプロレタリア集団主義を標榜(ひょうぼう)する「造型」が結成され(1925)、一方、日本プロレタリア文芸連盟が結成された。
昭和に入ると、1927年(昭和2)ロシア革命10周年記念「新ロシヤ美術展覧会」を契機として、プロレタリア美術運動は急速な高まりをみせる。同年「造型」は拡大再組織されて造型美術家協会となり、翌28年、全日本無産者芸術連盟(ナップ)創立、そして無産者美術団体協議会が成立して、同年11月には上野・東京府美術館で同会主催の第1回プロレタリア美術大展覧会が開かれた(第5回展まで毎年開催)。29年1月にはナップ所属日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)が結成されるが、35年のヤップ解散によって、組織的なプロレタリア美術運動に終止符が打たれた。
この第二次世界大戦前の日本のプロレタリア美術の展開は、いわば、ナップ系の社会批判的形態(柳瀬正夢(やなせまさむ)、木部正行、須山(すやま)計一、松山文雄、鈴木賢二ら)と、造型美術家協会系の芸術批判的形態(矢部友衛(ともえ)、岡本唐貴(とうき)、山本嘉吉(かきち)、岩松淳ら)とが「プロレタリア・リアリズム」を命題として結集した運動形態といえる。そして、その二面性をもった性格のまま「社会主義リアリズム」に組み込まれ、第二次大戦後の民主主義美術運動へ継承されていった。
[永井信一]