改訂新版 世界大百科事典 「ヘンリー3世」の意味・わかりやすい解説
ヘンリー[3世]
Henry Ⅲ
生没年:1207-72
プランタジネット朝第4代のイングランド王。在位1216-72年。父ジョン王の没後9歳にして即位した。摂政ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル(1219没)のもとで,ジョン王と争ったフランス皇太子ルイと和解し,またジョン王の破棄したマグナ・カルタ(大憲章)を改訂を重ねて2度公布し諸侯の忠誠を得た。成年に達して1225年にはマグナ・カルタの確認書を公布したが,このころから父王が失った大陸のアンジュー家所領の回復を志して遠征を繰り返した。しかし成果はなく,59年パリ条約でガスコーニュの領主権以外はすべて公式に放棄するにいたった。他方,次男エドマンドのシチリア王戴冠の約束で教皇アレクサンデル4世の要請に応じ,神聖ローマ帝国皇帝の勢力下にあるシチリア征服を計画した。しかしそれまでの遠征にともなう重税に不満をもつ諸侯に反対され,さらに国政改革を要求された(1258)。王妃がプロバンス伯の出であることから,プロバンス人など外国人を多数登用し,寵臣政治を行ったことも諸侯の不満となっていた。ヘンリーはシチリア遠征の費用調達と引きかえに,改革要綱の〈オックスフォード条項〉を承認し,ここに行政全般を監視する15人委員会が成立した。しかし遠征費用の問題が解決しないため,教皇はエドマンドのシチリア王権を解消した。ヘンリーは失望し,諸侯に譲歩して承認した〈オックスフォード条項〉の解除を教皇に願い出た。しかし一方,国内では騎士階層はじめ国制改革の徹底を求める声が高く,59年には〈ウェストミンスター条項〉が成立した。このころから諸侯は王と結ぶ保守派とシモン・ド・モンフォールを先頭とする改革派に分裂した。調停に当たったフランスのルイ9世が〈アミアンの裁定〉(1264)で〈オックスフォード条項〉の無効を宣言すると,両派は戦いとなり,ヘンリーはルーイスで改革派に捕らわれた。しかし,翌年皇太子エドワードの指揮で王軍が勝利を収め,以来政治の中心は皇太子に移った。
執筆者:佐藤 伊久男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報