パリ盆地の一角モンフォール・ラモーリーに居城をもつフランス王の直臣。シモン4世ともいう。その妻が相続したイギリスの領地によってレスター伯とも呼ばれる。第4回十字軍に参加し,ベネチア人の奸策に加担することを拒んで,パレスティナに向かう。のちインノケンティウス3世により宣布された南フランス異端討伐のアルビジョア十字軍に従軍(1209)。1209年,カルカソンヌの攻囲戦で頭角を現し,果断な戦術家として評価され,選ばれて十字軍の指揮者となり,ベジエを攻略,ベジエとカルカソンヌの支配者レーモン・ロジエから奪取した両子爵領を領有した。この所領近傍の多くの城は難なく陥れたが,さらにミネルブ,テルム,ラボールのように,ほとんど難攻不落とされていた要塞をも制圧した。13年,ミュレMuretの戦で,トゥールーズ伯レーモン6世とアラゴン王ペドロ2世との連合軍に奇跡的な勝利をおさめ,翌年トゥールーズに入城した。ラテラノ公会議(1215)で,彼は教皇によってトゥールーズ伯に任ぜられ,その征服したすべての土地の領有を認められた。しかし翌16年春,シモンはあらためてフランス王フィリップ2世に臣従の手続きをとったから,南フランスはローマ教皇直属の封土とはならなかった。インノケンティウス3世が死去すると,レーモン6世とその息子は民衆の支持を得て,旧領の再征服に乗り出し,トゥールーズは包囲され(1217-18),この合戦のさなかにシモンは戦死した。息子シモン・ド・モンフォールはイギリスで活躍した。
執筆者:井上 泰男
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1208頃~65
イングランドの貴族。フランスの名門に生まれたが,イングランド出身の母の領地をついでレスター伯となる。初めヘンリ3世に重用されたが,のち王に反抗する貴族を指導し,1258年オクスフォード条項による改革を王に承認させ,65年聖職者,貴族の集会に州騎士,都市代表を加えて国政を議した。通常これがイギリス議会の起源とされる。しかし同年王党派と戦って敗死。
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