イングランドの貴族。フランスの貴族モンフォールの息子で,22歳のころイングランドに渡り,ヘンリー3世に迎えられたが,1238年王妹エリナーと結婚して貴族の憤りをかった。翌年レスター伯領を正式に下賜された。友人で大学者R.グロステストの影響を受け,40年には十字軍に加わった。48年に王の命でフランスのガスコーニュ総督となったが,当地の貴族との不和で54年帰国を命ぜられた。このころ王との対立が明らかになり,58年の議会でそれは決定的となった。議会開催は王の課税承認を目的としていたが,かねて王の外国人を重用する政治に反感をもっていた貴族は,王の要求と引きかえに国政改革を主張,シモンも改革派貴族の有力な一員となった。彼は24人委員会の一人として改革の要綱〈オックスフォード条項〉を起草し,条項は王の承認を得て国王顧問の役割を担う15人委員会が成立,シモンもこれに加わり行政全般の管理の任に当たった。しかし委員会の貴族寡頭政は騎士階層の不満をかい,改革の徹底を望む声が高まった。これを受けて改革推進の指導者となったのがシモンであった。〈ウェストミンスター条項〉(1259)はその成果であったが,これに反対の保守派が現れて貴族は分裂した。シモンの改革派は王と結ぶ保守派貴族と対立したが,両派の調停に当たったフランス王ルイ9世が〈アミアンの裁定〉(1264)でオックスフォード条項の無効を宣言したため,シモンは兵を挙げて王の軍と開戦した。戦いはルイスに王を捕らえてシモン側の勝利となり,65年貴族,高位聖職者,州選出の騎士と都市の代表を議会に招集した。しかしシモンの政治は困難をきわめ,また王および保守派の貴族が勢力を強めた。同年戦いが再開され,シモンはイーブシャムで敗死した。しかし彼の改革の多くはエドワード1世に引き継がれた。シモンが招集した議会は通常イギリス議会制の起源ともされる。
執筆者:佐藤 伊久男
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イギリスの貴族。ヘンリー3世の治世に王制改革運動の指導者として活躍した。フランスの名門の出であるが、祖母の縁でイギリス貴族(レスター伯)の地位を得た。王の妹と結婚して有力となり、フランス(ガスコーニュ)の地方長官に任じられたが、辞任後は王の浪費に不満を抱く諸侯の先頭にたち、1258年「オックスフォード条項」を王に認めさせて15人の貴族による最高行政会議を設置した。しかし、王の違約から戦乱(諸侯(バロン)戦争)となり、王を捕らえたシモンは国の統治権を一時握ったものの、65年8月皇太子エドワード(後の1世)の反撃を受けて敗死した。同年初め、彼が、貴族らに加え新たに州代表の騎士、都市代表の市民をも招集して開いた議会は、しばしば議会制の起源をなしたものといわれるが、この制度が確立したのは、代表制が慣行となり二院制が成立する14世紀前半のことである。
[松垣 裕]
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…同年ベジエを襲撃して全市民を虐殺し,西進してカルカソンヌを占拠した。ここで俗人の十字軍指導者としてシモン・ド・モンフォール(英国史に登場する同名人物の父)が選任される。以後十字軍はカルカソンヌを拠点として周辺への出撃を繰り返す時期が続くが,13年ミュレの合戦にアラゴン王,トゥールーズ伯,フォア伯の南欧連合軍を粉砕して,一挙に南フランスの大半を制圧した。…
…しかし一方,国内では騎士階層はじめ国制改革の徹底を求める声が高く,59年には〈ウェストミンスター条項〉が成立した。このころから諸侯は王と結ぶ保守派とシモン・ド・モンフォールを先頭とする改革派に分裂した。調停に当たったフランスのルイ9世が〈アミアンの裁定〉(1264)で〈オックスフォード条項〉の無効を宣言すると,両派は戦いとなり,ヘンリーはルーイスで改革派に捕らわれた。…
※「シモンドモンフォール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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