改訂新版 世界大百科事典 「パレスティナ」の意味・わかりやすい解説
パレスティナ
Palestine
地中海東岸地方,すなわち歴史的にシャーム(シリア)とかレバントと呼ばれた地域の南寄りの部分で,いわゆるシス・ヨルダンCis-Jordanにあたる。アラビア語ではフィラスティーンFilasṭīn。北側はレバノン,東側はヨルダン川と死海を結ぶ線を隔ててシリア・ヨルダン(トランス・ヨルダンTrans Jordan),南西側はエジプトによって囲まれた細長い区域。その形状は剣や銃にもたとえられる。
あたかも背骨のように中央を南北に貫く形で,標高500~1000m級の石灰岩質の丘陵が連なっている。背骨の南半はユデアJudea山地(ハリール山地al-Khalīl Jibāl),北半はサマリア山地(ナーブルス山地Jibāl Nābulus)と呼ばれる。これら一連の山地の西側の裾は地中海にかけて幅の狭い帯状の平野をなし,東側は山地と平行するヨルダン地溝帯(死海湖岸は標高約-400m)に向かって深く落ち込んでいる。この山地の稜線沿いにナーブルス,エルサレム,ヘブロン(ハリール),ベールシェバ(ビールッシバー)などパレスティナの主要都市が形成された。山地西側では海岸線に沿ってヤーファーやガザ,山地東側ヨルダンの谷(ガウル)の荒野のなかのオアシスにはイェリコ(アリーハー)などの都市が成立した。サマリア山地の北端はカルメルal-Karmal山となって地中海に突き出し,アッカー(アッコ)やハイファの良港をつくり出した。パレスティナ北端のガリラヤ山地(ジャリール山地Jibāl al-Jalīl)はその北のレバノン山地に連結しているが,ガリラヤ山地にはサファドやナザレなどの都市が生まれた。ユデア山地からさらに南方のパレスティナ南部は,紅海のアカバ湾に突き立つ形の剣の切っ先あるいは銃床にもあたる大きな三角地帯をなすが,この部分はネゲブの砂漠で,それは西のシナイ砂漠にそのまま連なっており,東は,ヨルダン地溝帯のうち死海から南の部分すなわちワーディー・アルアラバWādī al-`Arabaを隔ててヨルダン南部のシャラーフ山地の荒野と向き合っている。パレスティナの地中海に面した平野や山地,さらにサマリア山地とガリラヤ山地との間に広がるエスドラエロンの平野(イブン・アーミル平原)では,果樹や穀物の栽培が古くから盛んであった。ヤーファーのオレンジはことに有名である。パレスティナの気候は地中海式であるが,ヨルダン地溝帯の夏の暑さは特別に厳しい。
地名と地域画定
パレスティナの名称はペリシテ人(びと)の国を表すフィリスティアという語に由来する。ローマおよびビザンティン帝国の支配のもとで行政区画としてパレスティナ(その中でパレスティナ・プリマ,パレスティナ・セクンダ,パレスティナ・テルティアの3区分もなされた)が設定されたし,またアラブ支配下でこれを受け継いで軍区ジュンド・フィラスティーンが置かれたことはあるが,しかし歴史を通じてパレスティナは漠然と南部シリア(南部シャーム)を指す地方名にすぎなかった。パレスティナの地理的区画が明確に定められることになったのは,第1次世界大戦後のイギリス,フランスによる歴史的シリアの分割に伴い,イギリスによるパレスティナ委任統治が成立したことによる。すなわち,1920年4月イタリアのサン・レモで開かれた主要連合国(イギリス,フランス,イタリア,日本,ギリシア,ベルギー)の会議で,シリア・レバノン(歴史的シリアの北部にあたる)の統治はフランスに,イラク(メソポタミアとその北のモースル地方を結びつけたもの)と歴史的シリアの南部にあたる〈パレスティナ〉との統治はイギリスに委任されることが決められた。
サン・レモ会議に続いて,イギリス政府は1921年3月,W.チャーチルの司会のもとにカイロ会議を開き,ヨルダン川を境として〈パレスティナ〉を二分し,東をトランス・ヨルダン,西をパレスティナとすることを決定した。国際連盟がサン・レモ会議の結論を承認し,パレスティナの委任統治が発効したのは,22年7月であるが,国際連盟は同年9月,カイロ会議の結論をも承認し,トランス・ヨルダンのイギリス委任統治とは別に,パレスティナのイギリス委任統治が国際的に確定されることになった。もっとも,シナイ半島との境界線については,エジプトを占領支配していたイギリスの圧力でオスマン帝国が締結した1906年10月のシナイ境界線協定(エジプトの領域を定めた)により,すでに画定されていた線が踏襲された。
17年11月のバルフォア宣言は,パレスティナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナル・ホーム)を樹立する計画に対し,イギリス政府が支持を与えるものであったが,パレスティナの地域的枠組みは,同宣言を実行すべき場として,むしろ後から組み立てられたものなのであった。ここからパレスティナをエレツ・イスラーエール(イスラエルの地)として理解する立場も生じるが,シオニスト改訂派をも含むシオニズム運動が聖書における神の〈約束〉に依拠して,その〈約束の地〉(《創世記》12:7,13:15,15:18,28:13)の範囲を現代国際政治における領域問題として議論しようとする傾向をすらもったことにより,パレスティナの範囲はそれ自体20世紀の政治的争点となる。しかし,イギリスによるパレスティナ委任統治(1922-48)がこうして設定したパレスティナの地域的枠組みを前提として,パレスティナ人という存在や,さらにやがてパレスティナ民族主義が成立してきたのであった。
歴史
パレスティナが,上述のような経緯で枠づけられた地域である以上,現在の枠組み,区画に従って歴史を裁断することには無理がある。あくまでも肥沃な三日月地帯の一部として,あるいは歴史的シリア(シャーム)の一部として,その歴史を問題にしなければならない場合が多いからである。パレスティナに相当する地域の歴史において,そこでの人間の足跡は旧石器時代初期までさかのぼるが,カルメル山の洞窟からは旧人の骨が発見されている。農耕,牧畜に基づく生産経済の発展とともに,前1万年ころよりナトゥフ文化が展開し,イェリコの都市形成が進んだ。前4000年ころから銅の採掘・冶金が開始され(ガッスール期),周壁をもつあまたの都市が生まれた。やがてエジプトやメソポタミアやアナトリアとの交易の発展のもとで,またこれら周囲から発する巨大な政治的・軍事的ヘゲモニーの交錯のはざまにあって,この地域とその周辺はカナンと呼ばれるようになったが,カナンでは,主としてエジプトからの政治的支配が消長するとともに,多様な勢力・集団が侵入・登場し,また融合しあった。
前1200年ころフィリスティア人(ペリシテ人)として知られる〈海の民〉の集団が到来し,また前1000年ころにはイスラエルの民の王国が成立した(イスラエル王国)。後者は,ダビデ,ソロモンの繁栄時代を経てユダ(ユダ王国),イスラエルの南・北2王国に分裂するが,北王国はアッシリアに,南王国は新バビロニアに滅ぼされた。その後これらの地域(南はユダエア,北はサマリアと呼ばれる)は約200年にわたるアケメネス朝ペルシアの支配を受けるが,前332年アレクサンドロス大王に征服されたのち,プトレマイオス朝,次いでセレウコス朝のもとで,ヘレニズム化が進行した。ペルシア支配以来成立発展したユダヤ教団は,セレウコス朝に抗するマカベア戦争(前166-前142)を通じてハスモン朝の王国をつくり出したが,その領域も前63年ポンペイウスの征服によりローマの属州と化した。その後,ユダヤ教徒たちの反乱(66-73,132-135)も鎮圧され,70年に破壊されたエルサレムは,ローマ帝国の一都市として再建された。この地域は,東方のペルシア人の国家と対峙するローマ帝国,ビザンティン帝国の前線にあたっており,614-627年にはササン朝ペルシアによって占領された。しかし,636年アラブ・ムスリム軍がヤルムークの戦でビザンティン軍を撃破したことにより,この地域のアラブ支配とイスラム化との開幕が決定的となる。
シリアに政治的重心を置いたウマイヤ朝(661-750)のもとで,イスラムの聖地エルサレムをもつこの地域はますます重視されるようになり,第7代カリフ,スライマーンなどはラムラに第2の首都を置き,宮殿を建設さえした。アッバース朝の宗主権のもとでエジプトに本拠を置いたトゥールーン朝(868-905)が9世紀末その統治をシリアにまで広げてから,さらにイフシード朝,ファーティマ朝(909-1171)にかけての期間,パレスティナにあたる地域はエジプトからの支配のもとに置かれた。しかし11世紀半ばには,東から伸びてきたセルジューク朝の勢力下に入り,次いで同世紀末には,十字軍国家がここに樹立されることとなった。十字軍は13世紀末アッカーの陥落をもってついえ去り,マムルーク朝によって駆逐されるが,その間この地域は,アイユーブ朝,次いでマムルーク朝と十字軍勢力との抗争の場となった。しかし,この十字軍時代にも商業,交易は決して衰えず,築城術をはじめ東西の文化交流が進み,パレスティナの地にとどまった十字軍士もあった。
カイロからするマムルーク朝(1250-1517)のシリア支配は,1516年オスマン帝国スルタン,セリム1世によって打倒されることとなり,これ以後は1917-18年にアラブ反乱を利用しつつ進出したアレンビー将軍麾下のイギリス軍が制圧するまで,この地域はオスマン帝国の一部分となった。しかし18世紀後半,レバノン山地やエジプトの情勢と連動しつつ,アッカーを中心にして,イスタンブールのスルタン政府から自立した地方権力が展開した。すなわち,サファドの領主ザーヒル・アルウマルẒāhir al-`Umarは勢力を拡大して,1768-74年露土戦争の際にエジプトのアリー・ベイと同盟し,ロシアの援助を得つつオスマン宮廷に反逆した。また,ザーヒルの権力の崩壊後は,1774-1804年の間アッカーに拠ったボスニア生れの軍人ジャッザールがシリア全土に勢威を伸ばし,オスマン帝国もこれを認めて利用せざるをえなかったが,彼は,1799年にエジプトからシナイ半島を越えてアッカーを衝こうとしたナポレオン軍を,イギリス艦隊に支援されつつ撃退することができた。
このようにして始まった東方問題において,聖地問題を抱えるこのシリア南部地域は,その展開の焦点となった。すなわち,〈イスラム教徒に奪われた聖地を奪回する〉という十字軍的発想にかわって,東方世界のなかのキリスト教徒やユダヤ教徒の存在をむしろ重視し,それらをてこにして宗教・宗派の対立を煽り,利用するというのが東方問題の構図であり,したがってそこでは複数の宗教の共通の聖地であるパレスティナが何よりも問題となった。それは,1840年のロンドン4ヵ国条約が,1831年アッカー要塞を陥落させたエジプトのムハンマド・アリーによるシリア支配を終わらせるものであったことや,クリミア戦争が,ベツレヘムの生誕教会の管理権をめぐる紛争に起因したことなどに,よく示されている。スエズ運河の開通はこの地域の戦略的重要性をいちだんと高めた。しかし19世紀後半,オスマン治下のアラブ地域で広く生じてきたアラブ民族運動については,この地域も例外ではなかった。ヨーロッパ列強による東方問題的宗派紛争の煽動と操縦は,宗派の違いを超えたアラブとしての一体性を強調するアラブ民族主義によって牙を抜かれつつあった。このとき,いまだ小規模とはいえ,東欧からの移住運動という新しい要素が生まれてきた。すなわち,それはロシア支配下で1880年代以降激化したポグロム(ユダヤ人集団虐殺)を逃れてパレスティナを目ざす入植運動であり,さらに列強の承認のもとでこれをユダヤ人国家の建設という目標に結びつけようとするシオニズム運動の出発なのであった。キブツ(集団農場)が初めてティベリアス湖岸ウンム・ジュニー(のちのデガニヤ)につくられたのは,1909年である。こうして,多角的宗派紛争を操る東方問題的局面とは異なる構造をもつパレスティナ問題が,パレスティナという場の限定を伴いつつ新たに設定されることとなり,第1次世界大戦以降のパレスティナの歴史は,まさしくパレスティナ問題の歴史の中心舞台となるのである。
パレスティナ文化の特質
パレスティナは文明の十字路というにふさわしく,また古来,異質の文化が溶け合うるつぼであった。歴史を通じて,あまたの集団が通り過ぎ,また踏みとどまって住民の一部となった。破壊の傷痕を残していったものもあれば,異文化の交配の果実を実らせたものもある。巡礼者,宗教家,学者,旅行家,商人,軍人,奴隷,そして侵略者がやって来た。周囲の,そして世界のさまざまな勢力が外側からこの地域の深部に及んで来て,競い合いつつこの地域を〈周辺化〉したことにより,この地域は逆に〈中心化〉したということもできよう。ユダヤ教,キリスト教,イスラムという普遍主義的三宗教の共同の聖地を有するこの地域が世界と人類に対して発揮する中心性については,これを明らかに見てとることができる。またそのために,この地域の文化は,歴史的に,反発と融合,破壊と再建,奪うことと与えること,これらのダイナミックな統合の様相を呈するのである。
すでに述べたように,確かに地理的区画としてのパレスティナは新しいものであるとはいえ,しかしそこにはすでに地方色豊かな個性的文化が醸成されていたことをも認めなければならない。例えばそれは,美しい刺繡の伝統的デザインとこれをあしらった婦人の衣服,あるいはダブカ(並んで手を組み足を踏み鳴らしてリズムをとる踊り)などに結実する農村文化としても示されている。しかもそれは,中央アジアやカフカス出身の軍人,アフリカやスラブの奴隷,西欧からの武装巡礼者としての十字軍士,世界各地から来た三宗教の信者たち,そして反ユダヤ主義によって東欧の社会から押し出されてきた入植者たちなどが往きかう生活の場で,形成され,洗練されてきたものなのである。ユダヤ人に対して〈帰還〉という行為の意味づけが与えられたように,いまパレスティナは,20世紀の離散の痛苦をなめたパレスティナ人にとって,〈帰還〉を果たすべき土地として意味づけられている。立ち返る人を予定するパレスティナの象徴性もまた,その文化の特質にかかわる問題というべきだろう。
→エルサレム →シリア →パレスティナ問題
執筆者:板垣 雄三
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