改訂新版 世界大百科事典 「ペロニスモ」の意味・わかりやすい解説
ペロニスモ
Peronismo
アルゼンチンの政治運動で,創始者J.D.ペロンにちなみ,こう呼ばれている。1943年6月4日,軍事クーデタの有力指導者だったペロンの打ち出した親労働者政策が大衆の支持を受けたことから生まれた運動で,社会正義,経済的自立,自主外交を基本的な政策路線としている。とくに社会正義を強調することから,正道主義(フスティシアリスモJusticialismo)とも呼ぶ。民族主義的な改革を志向して共産主義に反対し,カリスマ的リーダー(1974年に没するまではペロン)を擁し,支持基盤が労働者や中間層など多階級的な点において,ラテン・アメリカのポプリスモの典型例とみなされている。ただし,他のポプリスモ運動がおもに中間層を主要な支持基盤としているのに対し,ペロニスモは労働者の比重の高い点に特色がある。
1943年当時,労働者がなぜペロンを支持したかに関しては多説があるが,イタリア生れの社会学者ジノ・ジェルマーニは,当時ブエノス・アイレス市周辺の工業地帯に内陸部出身の労働者が急増していたことに着目し,都会生活に不慣れな彼らが操作されやすい大衆をなし,ペロンのデマゴギーに吸引された,とした。これに対してM.ムルミスとJ.C.ポルタンティエロは,新しい労働者のみならず旧来の労働者もペロンを支持していたとの事実を重視し,労働者全体が1930年代の保守政治の下で経済的に苦しい立場におかれていたことが,その反動として彼らをペロン支持に走らせた,とした。第1の説では労働者が受動的存在とみなされるのに対し,後者の説では労働者の自発性・主体性が強調されるわけだが,実際に46年にペロンを大統領に当選させた選挙母体が旧来の労働者の組織した労働党(1945年10月結成)であったことは,労働者のペロニスモ参加における自発性をある程度裏づけるものといえよう。
しかしながらペロンは,労使協調を唱えて運動内部における労働勢力の強大化を好まず,46年には単一革命党(1947年にペロニスタ党と改称)を結成して労働党を事実上解体に追い込んだ。以後ペロニスモの勢力はおもにペロニスタ党とペロニスタ系労働者の牛耳る労働組織(とくに労働総同盟CGT)によって支えられてきたが,55年のペロンの失脚後,軍部との激しい抗争の中でペロニスモはしだいに左傾化し,とくに60-70年にかけペロニスタの一部は,モントネロス(1968設立)などのゲリラ組織を形成して軍政(1966-73)を脅かした。ペロニスモを政治の枠外においておくことの非を悟った軍部は,73年3月ペロニスタの参加を認めた選挙を実施するが,この選挙で勝利したカンポラHéctor José Cámpora(1909-80)は,ペロニスタ左派の意向に沿った政策を進めたため,ペロンを中心とする中間派・右派の反発を招き,73年9月の大統領選を経てペロンみずからが大統領に返り咲き,穏健路線への転換を図った。この路線はペロンの死後イサベル・ペロン政権(1974-76)の下でも引き継がれたが,イサベルが政治に不慣れだったこともあり,朝令暮改を重ね,ペロニスモのイメージ・ダウンの一因となった。さらにペロン亡きあと,運動内部の対立が激化したことも重なって,83年10月の大統領選ではペロニスタ党は39%の得票率で2位に甘んじ,結党以来自由選挙で初めての敗北を喫した。
執筆者:松下 洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報