改訂新版 世界大百科事典 「ペー族」の意味・わかりやすい解説
ペー(白)族 (ペーぞく)
Bái zú
中国の少数民族の一つ。雲南省の洱海西岸に開けた大理盆地および洱源,剣川,鶴慶などに聚居し,大理ペー族自治州を形成する民族。昆明,元江,南華,麗江などにも分布する。人口は185万8063(2000)。ペー語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派イ(彝)語支に属すが,単独でペー語支を形成するという説もある。大理地区のペー族はミンチヤ(民家)と呼ばれ,蘭坪・碧江一帯ではナマ(那馬),ラマ(拉馬)と呼ばれた。後者はナシ(納西)族からレブ(勒布),リス(傈僳)族からレメ(勒墨)と称されたことと関係がある。自称はペーツ(白子),ペーニ(白尼)で,〈白い人〉という意味である。族源に関しては,タイ系諸族説,チベット・ビルマ系諸族説,モン・クメール系諸族説あるいは多元説,土着説,外来説などの諸見解がある。これらの〈ペー族族源問題〉は日本の東洋史学界でも取り上げられ《蛮書》や《南詔野史》などの漢籍文献に現れる爨(さん)・(ほく),烏蛮(うばん)・白蛮(はくばん)等の民族集団の種族系統や南詔王国の支配階層との関係をめぐって論議が繰り広げられてきた。今日では,ペー族とは白蛮(広義のタイ系族)の雲南における子孫であり,長いあいだ烏蛮(イ語系諸族)の支配を受けたために両者の文化が融合してペー族を形成したとする考えが一般的になってきている。
彼らの歴史を概観すると,漢代から唐代にかけて洱海地区には白蛮系の西洱河蛮が白国(白子国)と称する王国を形成しており,その東部の曲靖・昆明一帯には同系の西爨白蛮が居住していた。唐代の中ごろになると,烏蛮系出自の蒙氏が勃興して南詔王国を建てた。それ以後,白蛮系首長のなかには蒙氏に服属するものも多く現れた。しかし,南詔滅亡後には再び白蛮系の段氏が台頭して大理国や後理国を築き,フビライ・ハーンによる征服まで該地域を支配した。このように洱海をめぐる諸地域では古くから諸民族が交錯し抗争が繰り広げられてきたのである。元・明以降に至ると漢人入植者が増加し,急速に漢化の度合を強めていくといわれる。また,この地域は雲南・ビルマ(現,ミャンマー)ルートという内陸交通の拠点として重要であり,東南アジア諸地域やチベット方面とも文化的・経済的交流があったため仏教をはじめ,インド系諸文化や漢文化が早くから導入され,それがまたペー族の文化を特徴づけるものになっている。
ペー族は大理盆地地区では水稲耕作に従事しているが,洱源西部の山岳地区などでは焼畑耕作を行っている。洱海東畔では漁業が盛んである。また,大理石などの石材にも恵まれ,剣川の大工と洱源の左官は有名である。ペー族の家族は一夫一婦制の小家族で,原則としては同姓の同族とは通婚しない族外婚が行われ,交叉いとこ(姑舅表)の縁組が優先される。古くから漢字姓が用いられ,楊・李・趙・董の4姓が多い。同姓の氏族集団はいくつかの村落に分かれて住み,共通の祖宗を祭る宗祠を持つ。住居は〈長三間〉や〈一正両耳〉という形式が一般的である。宗教は観音信仰と結びついた仏教の影響が大きく,各地に寺院建築や仏教遺跡がみられる。とくに剣川石窟や崇聖寺は有名である。ペー族に特徴的な信仰としては本主信仰がある。本主とは産土神(うぶすながみ)的な性格を有する一地方や一村落の守護神であり,伝説上の英雄が多い。現在大理を中心とした71村中には,それぞれ本主廟があり,これらの廟には全部で61神(女神21,男神39,最高神1)が祭られているといわれる。ペー族の伝説の多くはこの本主にまつわるものである。本主会(本主の誕生日)のときには盛大な祭祀が行われる。葬制は古くは火葬であったが,明代以降土葬に改められた。祖先崇拝は漢族の影響が顕著である。
節日には春節,端午,中秋などのほかに,観音会の縁日として古くから続いている物資交流会の三月街,旧暦4月に聖源寺,河涘城,馬九邑の三霊地を男女が巡礼する繞三霊,旧暦6月25日に村々に大きな火把をたてて豊作を祈願する火把節などペー族の民俗文化と深く結びついた行事がある。また民間舞踏や民間芸能も多彩であり,打歌と呼ばれる長編の問答形式の歌舞や大本曲という語りもの,吹々腔という芝居などがある。
執筆者:長谷川 清
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