グーテンベルク(読み)ぐーてんべるく(英語表記)Beno Gutenberg

日本大百科全書(ニッポニカ) 「グーテンベルク」の意味・わかりやすい解説

グーテンベルク(Johannes Gutenberg)
ぐーてんべるく
Johannes Gutenberg
(1398ころ―1468ころ)

ドイツの技術者。活版印刷術の創始者といわれる。この時代、活版印刷術に関しては、彼とその協力者をはじめ、ほかにも発明者といえる人がおり、その優先権は今日なお論議の種になっている。とはいえ、彼が発明者の栄誉を受けるに足る有力者の一人であることに間違いはない。

 グーテンベルクは、マインツの富裕な家庭に生まれた。1434年ころシュトラスブルクに移住し、活字印刷機の作製を試み、ドリツェーンA. Dryzehn(?―1438)とともに活版印刷の企業化をもくろんだが、この協力者の死で頓挫(とんざ)した。1445年ころ、マインツに戻ったグーテンベルクは印刷技術を完成、この町の金細工師フストJohann Fust(?―1466)の出資を得て、フストの養子シェッファーPeter Schöffer(1430?―1502)とともに印刷所を設立した。シェッファーは、従来の木や金属でつくった活字のかわりに、パンチを打ち込んで母型をつくり、それから鋳型をつくって、これに金属を流し込んで活字を製作した、といわれている。こうしてつくられる活字をグーテンベルクとシェッファーは、もっとも有効に利用しようとした。そのために、活字が擦り切れるまで繰り返し使えること、個々の文字は最初に念入りに下図をつくれば補充が容易で安価ですむこと、各活字の大きさと型とを厳密に標準化して自由に差し替えられるようにすること、を重視した。なお、活字の材料となった合金は、少量の蒼鉛(そうえん)(ビスマス)を含むスズ(錫)を基礎にしたものであったと考えられる。また印刷用インキは、当時すでに油煙または木炭粉末を沸騰したあまに油といっしょに練ってつくられていた。

 グーテンベルクが印刷したものとしては『四十二行聖書』(1452年から1456年に印刷されたと考えられる)、『三十六行聖書』(印刷時期不詳)などがあり、免罪符などの印刷も行った。ところで、1455年にフストが印刷事業から手を引いたため印刷所は破産し、グーテンベルクは負債の代償に印刷所をフストに譲り渡した。その後フンマーK. Hummerの財政援助を受けて機械の改良に努めた。1460年以後は盲目のために仕事を放棄した。しかし、マインツの大司教から恩給を与えられ、安定した晩年を送った。マインツにあるグーテンベルク博物館(1900年開館)には、グーテンベルクが印刷した活版印刷本や印刷機、世界各国の印刷物が展示されている。

平田 寛]

『C・シンガー他編、田中実訳編『技術の歴史6』(1978・筑摩書房)』『マリー・ゲクラー著、浅田清節訳『印刷の父ヨハン・グーテンベルク』(1994・印刷学会出版部)』『マイケル・ポラード著、松村佐知子訳『伝記世界を変えた人々15 グーテンベルク』(1994・偕成社)』『戸叶勝也著『グーテンベルク』(1997・清水書院)』『高宮利行著『グーテンベルクの謎 活字メディアの誕生とその後』(1998・岩波書店)』


グーテンベルク(Erich Gutenberg)
ぐーてんべるく
Erich Gutenberg
(1897―1984)

ドイツの経営経済学者。1921年ハレ大学博士号を、28年ミュンスター大学で教授資格をそれぞれ取得。経営監査士として実業界で活躍したのち、38年からクラウスタール鉱山大学、40年からイエナ大学、47年からフランクフルト大学の各教授を歴任。51年、ドイツ経営経済学の重鎮シュマーレンバハの後任としてケルン大学教授となり、66年定年退職した。59年(昭和34)訪日。彼は主著『経営経済学原理』(第1巻「生産編」1951、第2巻「販売編」1955、第3巻「財務編」1969)によって経営経済学に近代経済学の成果を大幅に導入し、第二次世界大戦後のドイツ経営学に新風を吹き込んだ。また理論学派を復興して、当時優勢であった技術論派との間に3次にわたる大論争を展開し、第一人者としての地位を不動のものとした。その学風は、理論学派としての性格を保ちつつも、経営管理の問題を十分に取り入れ、実践理論としてもドイツでは類をみない高水準のものとなっている。日本の学界へも大きな影響を与えた。

[森本三男]

『溝口一雄他訳『経営経済学原理』全3巻(1957~77・千倉書房)』『万仲脩一著『グーテンベルク学派の経営経済学』(1983・千倉書房)』


グーテンベルク(Beno Gutenberg)
ぐーてんべるく
Beno Gutenberg
(1889―1960)

アメリカの地震学者、地球物理学者。ドイツのダルムシュタットの生まれ。ゲッティンゲン大学のウィーヘルトのもとで学び学位を得る。地球の核の大きさの正確な決定(1913)、マントル低速度層の推定(1926)など、地震学的手法による地球内部構造の研究を行った。1929年アメリカへ移り、翌年カリフォルニア工科大学の地球物理学教授。1936年に帰化。リヒターCharles Francis Richter(1900―1985)の定義した地震のマグニチュードの拡張とその地震学における意義の確立に努力し、1949年には彼との共著になる名著『地球の地震活動』を発表した。ほかに主著として『地球内部の物理学』(1959)がある。

[吉井敏尅]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グーテンベルク」の意味・わかりやすい解説

グーテンベルク
Gutenberg, Erich

[生]1897.12.13. ノルトラインウェストファーレン,ヘルフォルト
[没]1984.5.22. ケルン
ドイツの経営経済学者。ハレ大学で近代経済学を専攻し,1921年博士号を取得して一時産業界へ出たが,その後フランクフルト大学で経営経済学を研究,1928年ミュンスター大学で教授資格を得て経営監査士として再び産業界で活躍し,1938年クラウスタール鉱山専門学校講座外教授。 1940年イェナ大学,1947年フランクフルト大学,1951年ケルン大学各教授。 1966年退官。近代経済学的手法を駆使して,経営経済理論の近代化に貢献した。生産理論,費用理論,価格理論にその成果がみられる。主著"Die Unternehmung als Gegenstand betriebswirtschaftlicher Theorie" (1929) ,『経営経済学原理』 Grundlagen der Betriebswirtschaftslehre (2巻,1955) ,『経営経済学入門』 Einführung in die Betriebswirtschaftslehre (1958) ,"Untersuchungen über die Investitionsentscheidungen industrieller Unternehmen" (1959) ,『企業の組織と意思決定』 Unternehmensführung (1962) 。

グーテンベルク
Gutenberg, Johannes

[生]? マインツ
[没]1468.2.3? マインツ
ドイツの活字印刷術創始者とされている人物。生年は 1394~99年と推定されている。グーテンベルクは母の姓で,本名はヨハネス・ゲンスフライシュ。マインツの貴族の家に生れ,飾り職ギルドに入り,金属細工に長じた。 1434年頃シュトラスブルク (ストラスブール) に行き,滞在中にワインしぼり機を利用して活字印刷機をつくった。 44~45年頃マインツに帰り,50年頃金細工師 J.フストと提携,彼の資金で印刷所を設けた。 52年『42行聖書』の活字組立てが始り,その後『36行聖書』の組版もつくられた。 55年両者の不和から裁判となり,印刷所はフストと写本業者 P.シェーファーの手に渡り,彼自身は K.フンマーの援助を得て印刷業を再建,60年には 42行活字よりもさらに小さい活字により一種の辞書『カトリコン』を印刷したとされる。 65年,マインツ大司教,ナッサウ伯から年金を受け,ようやく生活の安定を得た。なお,彼の生涯には不明な点が多く,活版印刷術の発明についても,『42行聖書』その他についても諸説がある。

グーテンベルク
Gutenberg, Beno

[生]1889.6.4. ダルムシュタット
[没]1960.1.25. カリフォルニア,パサディナ
ドイツ生れのアメリカの地球物理学者。ゲッティンゲン大学卒業。シュトラスブルクの国際地震学協会の助手 (1911~18) ,フランクフルトアムマイン大学の私講師を経て,地球物理学教授 (26) 。カリフォルニア工科大学教授 (30~57) 。パサディナ地震研究所所長 (47) 。地球内部のマントルとコアの境の深さを 3500kmと決定。地震のマグニチュードを定義し,それを用いて地震の強さと頻度の関係式を与え,地震学の進歩に貢献した。著書『地球内部の物理学』 Physics of the Earth's Interior (59) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報