改訂新版 世界大百科事典 「マオリ戦争」の意味・わかりやすい解説
マオリ戦争 (マオリせんそう)
1860年から72年にかけてニュージーランド北島で,先住民マオリ族と入植者が戦った土地戦争。1840年締結のワイタンギ条約によってニュージーランドはイギリスの植民地となったが,植民地政府の土地政策は入植者とマオリ双方に失望をもたらした。入植者は土地購入権をもつのが政府であるため常に土地の不足を訴え,マオリは政府の買上価格の低さに不満をもった。グレイ総督は農業の振興や伝道活動をマオリ対策にとりいれたが土地の測量などをめぐり殺戮や小競合いが繰り返されるようになった。54年北島西海岸タラナキ地方のワイレム・キンギ首長らが土地問題を討議した(マナワポウ集会)のがきっかけで,58年にマオリ民族主義者の首長たちは部族連合による王国を樹立,マオリ王を擁立した。60年タラナキで王国の支持を得たキンギの反乱軍がイギリス軍と衝突し,マオリ戦争の発端となった。タラナキでの戦いは翌年一時休戦となったものの,63年にはその北のワイカトへと戦線は広がり,72年にキンギが屈服して戦争が終結するまで,西海岸および東海岸で激しい戦闘が続いた。当初はイギリス軍対マオリ反乱軍の戦いであったが,65年からイギリス軍が本国へ引き揚げはじめると,植民地軍と植民地政府に友好的なマオリ同盟軍対王国派マオリおよびゲリラの戦いになった。キンギやゲリラ指導者テ・クーティの武勇譚,パリハカ(北島西海岸)のガンディーことテ・フィーティの非暴力抵抗運動,再度総督になって平定に努めたグレイ総督の名前が戦争のなかで有名である。死者数はヨーロッパ側1000,マオリ側2000といわれる。戦争終了後の19世紀末になると,北島の植民者は約8万1000km2の土地を所有あるいは使用していたが,マオリの土地は約3万4000km2に減った。それと同時に,マオリの伝統(土地に対する祖霊信仰や土地の部族共有制度および土地にまつわる神話や伝説など)が失われた。20世紀に入るとマオリは都市における労働者階級を構成し,近代国家の建設にたずさわることになる。
執筆者:百々 佑利子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報