マンスフェルト(読み)まんすふぇると(英語表記)Constant George van Mansvelt

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンスフェルト」の意味・わかりやすい解説

マンスフェルト
まんすふぇると
Constant George van Mansvelt
(1832―1912)

オランダ海軍軍医。退任後上海(シャンハイ)で病院経営にあたっていたが、長崎精得館(せいとくかん)(長崎養生所改称。のち長崎医学校)でのボードイン後任として、1866年(慶応2)長崎へきた。明治維新にあたり、荒廃した精得館の学制改革に長与専斎(ながよせんさい)とともに尽力した。1871年(明治4)熊本古城(ふるしろ)の治療所(のち熊本医学校)へ招かれ、新旧勢力の激突する熊本で、峻厳(しゅんげん)・精励教師として知られた。そのときの学生に緒方正規(おがたまさのり)、浜田玄達(はまだげんたつ)(1855―1915)、北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)らがいる。いったん帰国したが、内務省衛生局長となっていた長与専斎の招きで再来日し、京都府療病院(1876~1877)、府立大阪医学校(1877~1879)へ勤務したが、京都ではドイツ語での教授を要求されるなど、時流転変のなかで1879年、14年間の日本滞在を終えた。

[神谷昭典 2018年8月21日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マンスフェルト」の意味・わかりやすい解説

マンスフェルト
Mansfeld, (Peter) Ernst II, Graf von

[生]1580頃.ルクセンブルク
[没]1626.11.29. サラエボ近郊
ドイツの軍人。ルクセンブルク総督マンスフェルト公ペーター・エルンスト1世の私生児。父の遺産相続から除外され,そのためハプスブルク家敵意をいだいて 1609年プロテスタントに改宗。 18年サボイア公カルロ・エマヌエルを支援してピルゼンを攻略。三十年戦争に際してはプロテスタント同盟軍に加わり,20年以降はライン地方で J.ティリーの率いる皇帝軍と戦った。 22~24年オランダの傭兵,次いでイギリスの傭兵となってデンマーク王の干渉戦争に参加。 26年4月 25日,エルベ川デッサウの渡河点で A.ワレンシュタインの率いる皇帝軍の阻止に失敗し,ベネチア退却の途中病没。

マンスフェルト
Mansvelt, C. G. van

[生]1837
[没]?
オランダの海軍軍医。慶応2 (1866) 年,A.ボードゥインの後任として長崎養生所の教師に着任,明治4 (71) 年4月まで同校で教え,その後熊本医学校 (71~74) ,京都府療病院 (76~78) ,大阪府病院 (78~79) でも教え,滞日 14年に及んだ。門下生北里柴三郎緒方正規,浜田玄達らがあり,日本医学界に与えた影響は大きい。 1879年帰国後はハーグ種痘局長をつとめた。

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