ベルルスコーニ(読み)べるるすこーに(英語表記)Silvio Berlusconi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベルルスコーニ」の意味・わかりやすい解説

ベルルスコーニ
Berlusconi, Silvio

[生]1936.9.29. ミラノ
[没]2023.6.12. ミラノ
シルビオ・ベルルスコーニ。イタリアの政治家,実業家。首相在任 1994,2001~06,2008~11)。イタリアのメディア王と呼ばれ巨万の富を築き,政界においても首相職を通算 9年あまりにわたって務めたが,数々のスキャンダル腐敗をめぐる訴訟に見舞われた。死後,ミラノで国葬が営まれた。
ミラノの銀行員の息子に生まれた。ミラノ大学法学部卒業後,1961年に会社を設立し,不動産開発,建設事業などで事業を拡大して資産をなす。1974年にケーブルテレビ会社テレミラノを,1980年にはイタリア初の民間テレビ局「カナーレ 5(チャンネル 5)」を設立,その後いくつかの放送局を吸収・合併し,10年後にはイタリアの放送網を牛耳った。また,百貨店,映画館,出版社,サッカーのイタリア1部リーグ(セリエA)の ACミランを買収するなど事業の多角化にも乗り出し,150以上の企業を持株会社フィニンベスト Fininvestの傘下収め,巨大コングロマリットに仕立てた。
政治家としては,1994年1月に右派新党フォルツァ・イタリアを結成,3月にイタリア下院議員に初当選し,5月には首相に就任した。ところが実業家時代の不正疑惑が浮上して 12月に辞任(翌 1995年1月まで事務管掌内閣の首班としてとどまる)。1998年に不正政治献金と贈賄で有罪判決を受けたが,いずれも 2001年11月までに最高裁判所で無罪が確定した。
2001年,減税,雇用拡大,年金増額を公約に掲げ,フォルツァ・イタリアの党首として中道右派連合を率い,議会選挙に勝利,首相に返り咲いた。2度目の在任中はイラク戦争派兵に対する世論の強い反対や経済低迷,失業者増加などに悩まされた。2005年4月の統一地方選挙での大敗をうけて,大統領に辞表を提出したものの再び組閣を求められ,信任された。しかし,2006年4月の議会選挙でロマーノ・プロディ率いる中道左派連合に敗北した。
2008年1月,プロディ政権が信任投票に敗れて退陣,その後の 4月に行なわれた議会選挙で新党「自由国民」Popolo della Libertà; PdL(フォルツァ・イタリアは解散。2013年再結成)を率いて中道右派連合を勝利に導き,5月に自身 3度目となる首相に就任した。2009年,脱税容疑や女性スキャンダルに見舞われ,2010年7月には PdLナンバーツーの地位にあったジャンフランコ・フィーニ下院議長が同調議員とともに離党するなど苦境に立たされたが,8月,9月,12月に行なわれた議会の内閣信任投票を乗り切った。2011年,ユーロ圏の債務危機をうけて財政危機に直面,9月には大手格付会社スタンダード・アンド・プアーズ S&Pによりイタリア国債の長期信用格付が引き下げられた。10月にはドイツのアンゲラ・メルケル首相,フランスのニコラ・サルコジ大統領から経済改革実施にあたってベルルスコーニの能力に疑義が呈せられ,また連立を組む北部同盟のウンベルト・ボッシ書記長とはヨーロッパ連合 EUの求める財政健全化法案をめぐって対立し,退陣を促された。11月8日,財政健全化法案の下院通過を条件に辞意を表明。法案は翌 12日下院で可決され,マリオ・モンティに首相の座を譲った。
退陣後も政界への影響を保ち続け,自身に不利な法案の成立を阻止する一方で,2013年8月には最高裁判所により脱税の罪で禁錮 4年の実刑判決がくだされたが,刑務所が過密状態にあることを理由に刑期が 1年に減刑され,さらに高齢を理由に服役を免れた。同 11月27日,上院はベルルスコーニが 6年間公職につくことを禁じた。しかし,2018年にミラノの高等裁判所が公職復帰を認め,2019年5月のヨーロッパ議会議員選挙に当選,2022年9月のイタリア議会選挙では上院議員に当選した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルルスコーニ」の意味・わかりやすい解説

ベルルスコーニ
べるるすこーに
Silvio Berlusconi
(1936―2023)

イタリア最大のメディア企業オーナー出身でヨーロッパ有数の資産家、第二共和制で何度も首相を務めた中道右派の政治指導者。ミラノ生まれ。「騎士il Cavaliere(イルカバリエーレ)」ともよばれる。

 銀行員を務める父と母の中産階級家庭に生まれ、ミラノ大学で法律を修める。1960年代、ミラノ郊外の都市開発など不動産事業からビジネスの世界で活動が知られ始め、1970年代にテレビ放送局を買収し、メディア産業にも急速に影響力を広げる。彼の企業フィニンベスト社は、民放、新聞、出版社などを含む複合的メディア企業に成長。サッカーのACミランのオーナーとしても世界に知られるようになった。急速な成長の背景には、ミラノの有力政治家、首相クラクシ(社会党)との緊密な関係があったといわれる。

 1990年代初頭、「タンジェントーポリ(汚職都市)」とよばれる大規模な政治腐敗の露呈を機に汚職摘発の手が政財界に及ぶと、彼も関与を取りざたされた。中道保守勢力を立て直すべく、総選挙が年明けに迫った1993年末、中道右派政党フォルツァ・イタリアの旗揚げを表明する。傘下のメディアと企業を総動員した選挙運動も奏功して1994年の総選挙で勝利を収め、首相の座についた。しかし、脱税疑惑や経済改革をめぐる連立政党との不和、不慣れな政権運営など障害が重なり、同年末政権崩壊に追い込まれる。

 中道右派の最有力政治家としての地位を確立し、政権復帰に向けて攻勢をかけた結果、2001年総選挙に大勝して首相の座に返り咲く。多数の力を背景に、労働市場の規制緩和など社会経済改革だけでなく、自らの裁判に有利な司法制度改革を実現し、「ベルルスコーニ時代」は最盛期を迎えた。2006年の選挙で惜敗したものの、2008年には中道右派の合同を成し遂げた自由国民(PdL)の指導者としてただちに首相に復帰し、ふたたび長期政権が訪れたかにみえた。しかし、ユーロ危機が波及し国債デフォルトの危機が迫るなかで有効な対策を打ち出せず、未成年者との買春スキャンダルなどで急速に内外の信認を失った結果、2011年末に首相の座を追われ、自由国民も分裂した。その後の裁判の判決で議員資格剥奪(はくだつ)処分を受け、再組織したフォルツァ・イタリアの支持も低下した。しかし、中道左派勢力の混乱を背景に、依然として政界への影響力を保持し、2018年公職に立候補可能な資格を回復した。

[伊藤 武 2018年6月19日]

 その後、2019年にヨーロッパ議会選挙にフォルツァ・イタリアの候補として出馬し当選。2022年のイタリア総選挙では上院議員に返り咲いたが、白血病を患い、翌2023年に死去した。

[編集部 2023年7月19日]

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