日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブリューゲル」の意味・わかりやすい解説
ブリューゲル
ぶりゅーげる
Bruegel
Brueghel
Breughel
16~17世紀に多くの画家を出したネーデルラントの一家。なかでも「大ブリューゲル」あるいは「百姓ブリューゲル」とよばれ、16世紀末ネーデルラント最大の画家となったペーテル・ブリューゲル1世と、その子ペーテル2世およびヤンの3人が傑出している。
[嘉門安雄]
ペーテル・ブリューゲル(1世)
Pieter Bruegel d. Al.(1528ころ―69)農民の子として、おそらく現オランダの北ブラバント州スヘルトゥヘンボックスの近くに生まれたと思われる。初めペーテル・クックの、ついでヒエロニムス・コックの弟子となった。のちフランスとイタリアに遊学し、もともとファン・アイク以来の北欧自然主義から出発した彼は、イタリア遊学途上のアルプスの風景に深く打たれた。帰国したのは1553年で、アントウェルペンで制作し、1563年に結婚してからはブリュッセルに移り、ここを活動の本拠地とした。
初期には、おもに民間伝説、習慣、迷信などをテーマにしていたが、ブリュッセルに移ってからは、農民戦争下の社会の不安と混乱、そしてスペイン本国の過酷な圧制に対する激しい怒りなどを、宗教的題材に託した作品が多くなった。しかし、その後はしだいに構図は単純化され、人物の数も減って、劇的要素を捨てて、純粋に写実的に、ときに比喩(ひゆ)的に、農民生活の実相を描くようになった。そして、大地と宿命的に深く結び付き、その宿命のなかに素朴に愚直に生きる農民を、高いヒューマニズムの精神と鋭い社会批判の目から描いた。最初の農民画家といわれるゆえんであり、「百姓ブリューゲル」の通称もここからきている。
現存する作品のうち、版画に比して油彩画は50点に満たない。だがその一作一作は、北方伝統の写実性とイタリアに学んだ厳しい線描のなかに独特のスタイルと味わいを示している。とくにウィーン美術史博物館に多く収められ、『謝肉祭と四旬節の争い』『子供の遊戯』『バベルの塔』、四季の農村を描いた3点(残りの1点はニューヨークのメトロポリタン美術館)、『嬰児(えいじ)虐殺』『農民の踊り』『田舎(いなか)の結婚式』などがあり、ほかにベルリン絵画館の『ネーデルラントのことわざ』、ブリュッセル王立美術館の『反逆天使の失墜』、ナポリ、カーポディモンテ美術館の『盲人たち』などが傑作として有名である。1569年9月9日、ブリュッセルで没。
[嘉門安雄]
ペーテル・ブリューゲル(2世)
Pieter Bruegel d. J.(1564―1638)大ブリューゲルの長子としてブリュッセルに生まれる。アントウェルペンに没。父のような題材のほかに、空想的、あるいは怪奇な場面などを描いて「地獄のブリューゲル」ともよばれている。彼はまた父のコピーもしている。
[嘉門安雄]
ヤン・ブリューゲル
Jan Bruegel d. Ae.(1568―1625)大ブリューゲルの二男で、ペーテル2世の弟。ブリュッセルに生まれ、アントウェルペンに没。早く父を失い、長じてイタリアに旅し、1597年にはアントウェルペンの画家組合に登録され、1602年には組合長になった。その後ルーベンスと親交を結び、その同僚・協力者として働いている。彼は風景画的要素の多い宗教的題材の作品も描いているが、とくに緻密(ちみつ)な手法によって花の描写に優れ、ルーベンスへの協力も主としてその面からである。そのため「花のブリューゲル」とか「ビロードのブリューゲル」とよばれている。作品はヨーロッパ各地にみられるが、ロンドンのナショナル・ギャラリーをはじめイギリスにもっとも多い。同名の子ヤン2世(1601―78)も画家。
[嘉門安雄]
『土方定一著『ブリューゲル』(1963・美術出版社)』▽『西沢信彌解説『大系世界の美術15 北方ルネサンス』(1973・学習研究社)』▽『森洋子編著『ブリューゲル全作品』(1987・中央公論社)』