宮廷で行われた文学を総称するが,この言葉が示す対象は各国の文学史によって異なる。またその時代も,当然のことながら一定しない。しかし,前近代社会にあっては,宮廷が文化の一つの中心となることは多く,宮廷に抱えられる職業詩人の存在はむしろ普遍的ともいえる。また,宮廷が独特の閉鎖的な人間関係の世界を作り出す場合も多く,そこで,言葉による表現が,極度の洗練に達することもあった。日本の場合,宮廷文学という概念は文学史の上では,かならずしも定着していないが,柿本人麻呂を宮廷の職業的詩人と見る考えもある。また,勅撰集や詩文集,私家集,歌物語等を輩出した平安朝の文学を日本における宮廷文学ととらえる見方もある。仮名による表現の最高の達成というべき《源氏物語》は,そこに描き出される複雑微妙な人間関係も含めて,平安時代の宮廷をぬきにしては生まれなかったといえよう。
ヨーロッパの宮廷文学という表現は,宮廷風の(フランス語でcourtois)文学,つまり主題,作風による分類と解するか,宮廷人ないしお抱え詩人の文学,つまり文学の担い手による分類と解するかで内容が大幅に違ってくる。また宮廷といっても国王の宮廷に限らず,近代国家成立以前は封建諸侯を中心とする宮廷が各地に存在したし,さらにお抱え作家を持つ権力,財力をそなえたパトロンをそれに匹敵するとみなすこともできる。
宮廷風文学を代表するものは12~13世紀の騎士道物語と吟遊詩人の宮廷抒情詩である。意中の貴女をたたえるこのみやびの伝統はその後も各国の文学に継承されるが,ヨーロッパ全体を覆う文学風土としての騎士道的恋愛観は中世独特のものであった。
宮廷人とくにお抱え作家の文学としての宮廷文学は,時代と庇護者の性格によって多様な文学ジャンルを開花させる。なかでもローマ皇帝アウグストゥスの文人庇護はヨーロッパにおける宮廷と作家の関係の原型となったし,ウェルギリウスとホラティウスの直接の庇護者でアウグストゥスに彼らを推挙したマエケナスの名は,文芸のパトロンを意味する普通名詞になっている。庇護者の名を不滅ならしめるために作家が文才を捧げ,それと引きかえに創作のための物質的便宜,社会的後ろだてを保証されるという宮廷作家の文学に共通の図式がここに成立する。同時に誇張した儀礼的賛辞と,矜持(きようじ)と卑屈が微妙に混在する姿勢が彼らの多くの作品を特徴づけることにもなる。ルネサンス期イタリアの名家も文人庇護で知られ,ポリツィアーノやベンボを擁したメディチ家,アリオストやタッソを庇護したエステ家の例は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガルの王侯貴族が見習うところとなった。しかしこれらは17世紀フランスのルイ14世の宮廷に比べれば,擬似的宮廷にすぎない。フランスでは16世紀のフランソア1世以来王権による文人芸術家の保護が盛んになり,ピエール・ド・ロンサールをはじめとする宮廷詩人が活躍したが,ルイ14世によって中央集権国家が確立するや,文化政策も王権主導により強力に推進され,文芸の庇護はあくまで国王中心に,王立アカデミーや作家への国王年金制度の形に統合されてゆく。また王権誇示のための華麗な宮廷生活には,建築家,画家,音楽家とともに作家が動員され,とりわけ演劇は王の愛好するジャンルとして隆盛をみた。王室の御用をつとめる形で不朽の傑作を残した劇作家に,悲劇のラシーヌ,喜劇のモリエールがいる。その他数多くの作家が,ルイ太陽王(14世)をとりまく星のごとき宮廷人をさらにとりまいて,彼らのサロンを登竜門として輩出し,おりにふれて王侯貴族に詩を献じ,才気で社交の場をにぎわした。検閲によって直截な批判は封じられ絶対君主への迎合が常識であったから,批判は,人間性という普遍的・モラリスト的表現をとるしかなかった。ラ・フォンテーヌの《寓話》やラ・ブリュイエールの《人さまざま》はその例といえる。ブルジョア出身作家のほか宮廷貴族も文筆に親しむ者が多く,ラ・ファイエット伯夫人の小説《クレーブの奥方》,セビニェ侯夫人の《書簡集》,ラ・ロシュフーコー公の《箴言》など古典的秀作が生まれた。宮廷記録を残した宮廷人もサン・シモン公以下おびただしい数に上る。これら全体をルイ14世の宮廷文学と総称することができよう。18世紀には宮廷よりもサロンが文学者の活躍の場となり,大革命によって王権が倒れたあとは,ときに一部に復古調が見られることはあっても宮廷文学は姿を消す。
→サロン
執筆者:二宮 フサ
ペルシアのササン朝宮廷において宮廷詩人は書記,占星術師,医師とともに王座を囲む主要な4人のなかに数えられ,宮廷文学の伝統はイスラム期の西アジアに継承された。
アラビア半島においてはイスラム期前に詩人は各部族に属し,部族の武勇や栄誉をたたえる詩を作った。預言者ムハンマドの時代には詩は不振であったが,ダマスクスに都したウマイヤ朝(661-750)の宮廷においては詩人が活躍し,部族的な頌詩の伝統のほかに,恋愛・抒情詩が台頭し,とくにカリフ,アブド・アルマリクに保護されたキリスト教徒のアフタルal-Akhṭal(640ころ-710)は最も代表的な宮廷詩人であった。
バグダードに都したアッバース朝(750-1258)の宮廷においてはペルシア文化の影響が著しく,宮廷詩人が重要な位置を占め,中心的な人物はカリフ,ハールーン・アッラシードに仕えた宮廷詩人アブー・ヌワースであった。宮廷における散文学の担い手は書記階級で,ササン朝時代の教訓文学は,書記イブン・アルムカッファーにより教養(アダブ)文学としてアラブ文学に移植・確立され,宮廷文学としても大きな役割を果たした。アッバース朝の宮廷文化・文学は,ハールーン・アッラシードに仕えた楽師・詩人ジルヤーブによってコルドバに都した後ウマイヤ朝宮廷に伝えられ,のちにイブン・ザイドゥーンのような優れた宮廷詩人が現れるに至った。
宮廷文学が最も栄えたのは中世ペルシアのイスラム諸王朝の宮廷であった。アラブに征服・支配された〈沈黙の2世紀〉を経たのち,10世紀にブハラに都したサーマーン朝宮廷において,ササン朝宮廷文学はイスラムの装いをもって復活し,宮廷詩人の制度が設けられ,ルーダキーをはじめ多くのペルシア詩人が華々しく活躍し,多くの頌詩を作った。この制度はガズナ朝,セルジューク朝にも受け継がれ,ガズナ朝スルタン,マフムードの宮廷には400人もの宮廷詩人が仕えたといわれ,ウンスリー`Unṣurī(?-1039)は最初の桂冠詩人の称号をうけた。セルジューク朝(1038-1194)宮廷にはムイッジーMu`izzī(1048ころ-1125ころ),アンワリーのような優れた頌詩詩人が仕えた。地方の小王朝も競って宮廷詩人を召し抱え,詩人ニザーミーのように宮廷には仕えず,その依頼で作詩する詩人も現れた。
モンゴル系イル・ハーン国やティムール朝下では,宮廷詩人に代わって活躍したのが宮廷史家たちであった。16世紀にシーア派国教化に伴い多くのペルシア詩人はサファビー朝に追われた結果,新たな保護者を求めてインドに渡り,デリーに都したムガル帝国の宮廷に仕え,とくにアクバルの宮廷は宮廷詩人の活躍の中心的な場となった。19世紀カージャール朝では宮廷詩人が再び活躍したが,同世紀末の立憲革命運動時代に姿を消してしまった。
トルコのオスマン帝国においても,ペルシア文化の影響を受けて宮廷・貴族文学が栄え,とくに16世紀のスレイマン1世の治世にフズーリーとバーキーの二大宮廷詩人が現れ,バーキーはメフメト3世に桂冠詩人に任命された。ネディムは同朝のチューリップ時代を代表する宮廷詩人であった。
執筆者:黒柳 恒男
中国における宮廷文学の最初の開花期は,前漢の武帝の時代(前140-前87)である。枚乗(ばいじよう)はその先駆的存在であり,やや遅れて司馬相如(しばしようじよ),東方朔(とうぼうさく),枚皋(ばいこう)らが現れ,全盛期を現出した。宮廷文人たちが愛好したのは,賦という美文の様式であり,彼らはみずからの仕える君主に従って,祭祀や遊宴そして狩猟などさまざまな場にはべり,そのありさまを壮麗に叙述した賦を献じて主の心を慰めた。司馬相如はその第一人者であり,《天子游猟賦(てんしゆうりようのふ)》(《子虚賦》《上林賦》の2編に分かたれることもある)は代表作としてしられる。
武帝時代以後にあっても中期の王褒(おうほう),後期の揚雄などの重要な作家が出て,宮廷文学の伝統を支えた。後漢を経て3世紀の三国初期に至ると,宮廷文学にも新たな様相が生じた。魏の曹操はすぐれた政治上の指導者であるとともに,新しい文学運動の推進者として,卓越した手腕を発揮した。彼の配下には,曹丕(そうひ)・曹植の2人の息子や,王粲(おうさん),劉楨(りゆうてい)をはじめとする建安七子(けんあんしちし)といったすぐれて個性的な文人たちが結集して,文学の気運を盛りあげた(建安文学)。彼らは旧宮廷文学の様式であった賦よりも,民間に起源をもつ楽府(がふ)や五言詩に力を傾注して,詩の発展に大きな画期を作った。また漢の宮廷文人が君主に一方的に奉仕する関係にあったのとちがって,彼らはしばしば君臣あいともに集まって創作する場を持った点,宮廷文学の新しいありかたを示したものといえる。
以後6世紀末に至る六朝の文学は,宮廷を主要な場として展開することが多かったが,なかでも6世紀前半の梁では,皇太子蕭綱(しようこう)を中心とする宮廷文人たちの極度に技巧をこらした華美な詩が宮体詩と称されて,一世を風靡した。唐に入っても,初期の太宗のころには文学の中心はなお宮廷にあり,上官儀(608ころ-664)などの詩人が活躍したが,彼らの文学はしょせん六朝の余習を出なかった。8世紀半ばの安史の乱以後は,宮廷文学の基盤となった貴族制社会の崩壊によって,文学はしだいに宮廷から離れていった。盛唐の王維は,宮廷文学の伝統を受けついだ最後の大詩人といってよい。
執筆者:興膳 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパ文学史上の用語で、la littérature courtoise(フランス語)、die höfische Literatur(ドイツ語)の訳語。主として12~13世紀ヨーロッパの、優雅な騎士的恋愛を主題にして書かれた叙情詩と物語文学をさしていわれる。騎士文学(騎士道物語)とその概念がほぼ似ているが、騎士文学のなかに含まれる叙事詩(「武勲詩」や『ニーベルンゲンの歌』など)は、宮廷文学のなかには普通含まれない。宮廷文学の対立概念としては町人文学があり、これは笑いを含んだ小話(「ファブリオー」や『狐(きつね)物語』など)や寓話(ぐうわ)を一括してさす用語である。
宮廷叙情詩は、南フランスのオック語で書かれた吟遊詩人(トルーバドゥール)のそれがもっとも早く、11世紀の末から12世紀にかけて、ポアチエ伯ギヨーム7世、ブライユの城主ジョフレ・リュデル、ベルナール・ド・バンタドゥールらの詩人たちが輩出して、意中の貴女(きじょ)に寄せる、思慕の綿々たる感情を歌った。これが北フランスやドイツの諸地で模倣され、著名な詩人を生み出したが、北フランスのシャトラン・ド・クーシー、コノン・ド・ベチューヌ、シャンパーニュ伯チボー4世らのいわゆる「トルーベール」、ドイツでは、ハルトマン・フォン・アウエ、ハインリヒ・フォン・フェルデケ、ワルター・フォン・デァ・フォーゲルワイデらが有名であり、ドイツではこれらの詩人をミンネゼンガー(愛の詩人)とよんでいる。
物語文学では、フランスのクレチアン・ド・トロアがもっとも有名で、6編の愛を主題とした物語を書いており、またイギリスのプランタジネット王朝の宮廷で短編歌物語を書いたマリ・ド・フランス、『トリスタンとイゾルデ物語』を書いたトマとベルールがおり、この世界的に有名な物語はドイツではアイルハルトとゴットフリートの2人の詩人によって書かれている。そのほか、ウォルフラム・フォン・エッシェンバハの『パルチバル』もヨーロッパ中世宮廷文学の最高作品の一つである。宮廷文学は13世紀前半に最盛期を迎え、のち急速に衰える。
[佐藤輝夫]
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