ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ランカスター」の意味・わかりやすい解説
ランカスター
Lancaster
ランカスター
Lancaster, Sir James
[没]1618.6.6. ロンドン
イギリスの航海者。若いときからポルトガル貿易に従事,1588年には F.ドレークのもとでスペイン無敵艦隊との戦いに参加。 91年アフリカ南端を迂回してインド,さらにペナン島におもむき,イギリスの東インド貿易の道を開いた。 1600年イギリス東インド会社の設立とともに翌年からその船隊を率いて,東南アジア地域におもむき,スマトラ島,ジャワ島で貿易の交渉を行なった。 03年帰国,ナイト爵を授けられた。北西航路の発見にも関心をもち,W.バフィンの探検を後援した。
ランカスター(伯)
ランカスター[はく]
Lancaster, Henry, 3rd Earl of
[没]1345.9.22.
イギリスの貴族。ランカスター家の始祖エドマンドの次男。国王エドワード2世の専制に抵抗した兄のランカスター伯トマスが処刑されたのち,1324年レスター伯となった。エドワード2世を倒すため王妃イザベル,R.モーティマーらとフランスにおもむき,兵を集めて 26年イングランドに上陸,王を捕え,27年廃位し,ランカスター伯の称を回復した。しかしこれまでの同志モーティマーと対立,30年これを捕えて処刑したが,この頃より失明し,政治生活より引退した。
ランカスター(伯)
ランカスター[はく]
Lancaster, Thomas, Earl of
[没]1322.3.22. ヨークシャー,ポンティフラクト
イギリスの貴族。国王ヘンリー3世の孫。地方貴族と結んでエドワード2世と対立,その寵臣 P.ギャビストンを追放,1312年彼を処刑した。 14年王室の改革に着手し,15年にはイングランドを事実上支配したが,個人的野心が強く,失政もあって権力を失った。王と和解したが,18年に台頭した寵臣ディスペンサー父子の追放を迫って王の軍と戦闘となり,敗れて処刑された。
ランカスター
Lancaster
ランカスター(伯)
ランカスター[はく]
Lancaster, Edmund, Earl of
[没]1296.6.5. バイヨンヌ
イギリスの貴族。ランカスター家の始祖。国王ヘンリー3世の第4子。 1254年教皇インノケンチウス4世からシチリア王位を与えられたが,それは名目のみで,58年にはその王位は無効とされた。 67年新しくランカスター伯に叙せられ,多くの称号と領土を合せて大勢力を有した。兄王エドワード1世に協力し,77~79年ウェールズに遠征,これを征服した。
ランカスター(公)
ランカスター[こう]
Lancaster, Henry, 1st Duke of
[没]1361.3.24. レスター
イギリスの軍人,外交官。ランカスター伯ヘンリーの子,国王ヘンリー3世の曾孫。百年戦争では数次の海戦に参加,1345~47年南西フランスでエドワード3世の代理兼司令官をつとめた。 45年ペリゴールで有勢なフランス軍を破り,翌年ポアティエを落した。 49年ガスコーニュとポアトゥーの司令官兼副摂政。 60年国王代理としてブレティニ仮条約を結んだ。
ランカスター
Lancaster, Joseph
[没]1838.10.24. ニューヨーク
イギリスの教育者。子供同士が教え合う集団教育法である助教法の創始者の一人。初め貧民の子の教育のため,費用をかけない教育の必要性から生れたこの方法は,広く欧米諸国に採用された。 1808年彼の教授法を援助する目的でランカスター協会が創設されたが,のち組織委員と意見が合わずアメリカに渡り,その教育法の実施と普及に努めた。
ランカスター
Lancaster
ランカスター
Lancaster, Burt
[没]1994.10.20. ロサンゼルス
アメリカの映画制作者,俳優。デビュー作『殺人者』 The Killers (1946) 。 1954年ヘクト=ランカスター・プロを設立,制作者も兼ねて『エルマー・ガントリー』 Elmer Gantry (60,アカデミー主演男優賞) ほかの良心作を生んでいる。
ランカスター
Lancaster
ランカスター
「アブロ・ランカスター」のページをご覧ください。
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