日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア映画」の意味・わかりやすい解説
イタリア映画
いたりあえいが
イタリアにおける映画製作事業は、フランス、イギリス、アメリカに次いで発達した。イタリア映画はまず無声映画時代に、大規模な史劇映画のスペクタクルと現代劇の二大主流によって黄金時代を築いた。ファシズム治下は振るわず、第二次世界大戦直後、現実を凝視するネオレアリズモ映画によって、芸術的にも興行的にも、世界の映画の新風を開いた。その後ネオレアリズモは変貌(へんぼう)・多様化し、作家個人の作風のなかに定着しつつある。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
無声映画時代・勃興期
1905年、映画製作会社「アルベリーニ・エ・サントーニ」がローマに撮影所をつくったのがイタリア映画事業の始まりである。まず史劇映画『ローマの奪取』(1905)がつくられた。また、初期のドキュメンタリーとして有名な実写『カラブリア地方の地震』(1905)などは、虚構のない現実そのものの迫力によって、深い感銘を観客に与えた。1908年から1918年にかけて、すなわち映画がその芸術的可能性を発見した時代、新興のイタリア映画は大規模な史劇映画のスペクタクルによって、フランス映画にかわり世界的な人気を博した。それは映画をセットから野外に開放し、自然の風景や群衆を存分に取り入れ、アクションの多い活劇的場面を豊富に用いて、近代的映画の内容と形式を樹立した。ルイジ・マッジLuigi Maggi(1867―1946)の『ポンペイ最後の日』(1908)の成功を手始めに、エンリコ・グァッツォーニEnrico Guazzoni(1876―1949)の『クオ・バディス』(1913)は、1時間を超える長編映画が興行的に定着するきっかけを与えた。こうしたスペクタクル史劇の代表作が、パストローネGiovanni Pastrone(ピエロ・フォスコPiero Fosco)(1883―1959)の『カビリア』(1914)である。一方、現代劇映画は史劇に次いで盛んになった。これにはロマンチック劇とリアリズム劇の2種が判然と分かれていた。前者はリダ・ボレッリLyda Borelli(1884―1959)やピーナ・メニケッリPina Menichelli(1890―1984)など、ディーバ(女神)とよばれた大女優主演のメロドラマ的悲恋映画で、マリオ・カゼリーニMario Caserini(1874―1920)の『されどわが愛は死なず』(1913)やパストローネの『火』(1914)を代表作とする。この時期の最大のディーバであるフランチェスカ・ベルティーニFrancesca Bertini(1892―1985)の主演作品には、グスターボ・セレーナGustavo Serena(1881―1970)の『アッスンタ・スピーナ』(1915)がある。後者ではナポリの住民の貧富の差を描いたニーノ・マルトリオNino Martoglio(1870―1921)の『闇(やみ)に落ちた人々』(1914)が代表作であるが、これは第二次世界大戦後のネオレアリズモ(新リアリズム)映画の原点であるといわれる。さらにロマンチシズムとリアリズムが渾然(こんぜん)一体となった秀作に、アウグスト・ジェニーナAugusto Genina(1892―1957)の『さらば青春』(1918)がある。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
ファシズム治下時代
1922年ムッソリーニのファシズムが政権を握り、徐々に映画統制を始める。ジェンナーロ・リゲッリGennaro Righelli(1886―1949)の『愛の唄』(1930)から、トーキー時代に突入することとなるが、イタリア映画の新風は第二次世界大戦直後を待たねばならなかった。この期は国策映画と娯楽映画の「白い電話機」映画が主流である。「白い電話機」映画とは、ブルジョア階級を象徴するアール・デコ風のサロンに白い電話機がたびたび現れることから名づけられた喜劇である。国策映画の代表作は、アレッサンドロ・ブラゼッティAlessandro Blasetti(1900―1987)の『太陽』(1929)やA・ジェニーナAugusto Genina(1892―1957)の『リビア白騎隊』(1936)、「白い電話機」のそれはマリオ・カメリーニMario Camerini(1895―1981)の『殿方は嘘吐(うそつ)き』(1932)などである。この暗黒の時代、光といえばチネチッタ映画都市の建設(1932)および「映画実験センター」Cèntro Sperimentale di Cinematografiaの創立(1935)である。映画実験センターは第二次世界大戦後のネオレアリズモの優れた人材を生むことになる。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
第二次世界大戦後のネオレアリズモ
イタリア映画の新風は崩壊寸前のファシズム治下のドキュメンタリー映画から生まれた。ネオレアリズモの代表作家ロベルト・ロッセリーニはその第一作『無防備都市』(1945)以前はドキュメンタリストであった。『無防備都市』はドイツ軍管理下のローマのレジスタンスを記録する意味で、現実の事件そのままに現地の素人(しろうと)俳優を用いてその行動を描いたが、このドキュメンタリーの方法や、素人俳優の起用、そしてモンタージュやフィクションの排除は、ネオレアリズモの画期的な新手法であった。ビットリオ・デ・シーカも同じ方法で第二次世界大戦後の現実を描き『靴みがき』(1946)の名作をつくった。ロッセリーニの『戦火のかなた』(1946)、デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)はこの初期ネオレアリズモを代表する傑作である。ルキーノ・ビスコンティはファシズム治下にすでにネオレアリズモの先駆的作品『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942。原題『妄執』)をつくり、第二次世界大戦後はほとんどドキュメンタリー作品ともいえる『揺れる大地』(1948)をつくって、前二者とはやや違うネオレアリズモの一方の旗頭となったが、彼はむしろジョバンニ・ベルガを継ぐベリズモ(真実主義)の信奉者であった。しかし彼は舞台の名演出家でもあったので、ドキュメンタリーから演劇性を引き出す達人でもあった。ネオレアリズモ映画は1948年を転機として時代の変質に従いやや変質した。方法的にはそれほどの変化もなかったが、題材とその取扱い方に新しい展開がみられた。ロッセリーニとデ・シーカは人間の救いにテーマを求め、新しいネオレアリスタは地方文化の現実描写に向かった。ピエトロ・ジェルミの『無法者の掟(おきて)』(1949)、とくにジュゼッペ・デ・サンティスGiuseppe De Santis(1917―1997)の『にがい米』(1949)がその代表作である。この後者には昔のイタリア映画のスター主義やメロドラマ趣味がうかがわれ、ネオレアリズモは死んだという批評家すらあった。これに抗議したのは、デ・シーカのシナリオをつねに書き続けてきたネオレアリズモの代表的シナリオ作家チェーザレ・ザバッティーニCesare Zavattini(1902―1989)であった。彼は現実の事件そのものを調べ、それを映画化するのがネオレアリズモだといって、自らアンケート集映画『巷(ちまた)の愛』(1953)を製作した。しかしネオレアリズモの変貌はもはや動かせない事実であった。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
ネオレアリズモの変貌と多様化
ビスコンティは『夏の嵐(あらし)』(1954)でネオレアリズモの歴史映画を創造する。彼はその後もイタリア統一運動を眼前にした貴族の諦念を描いた『山猫』(1963)を経て、『ベニスに死す』(1971)、『ルードウィヒ・神々の黄昏(たそがれ)』(1972)など、すでに過去のものとなった文化の美と快楽と偉大さを愛惜するレクイエムを奏でていく。変貌・多様化を代表する作家はフェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ピエル・パオロ・パゾリーニの3人である。彼らはネオレアリズモから巣立って独自の境地を開拓した。もっとも正統のネオレアリズモは『アルジェの戦い』(1966)のジロ・ポンテコルボGillo Pontecorvo(1919―2006)、『シシリーの黒い霧』(1961)のフランチェスコ・ロージ、『家族日誌』(1962)のバレリオ・ズルリーニValerio Zurlini(1926―1982)、『狂った夜』(1959)のマウロ・ボロニーニMauro Bolognini(1922―2001)などによってそれぞれ個性的に受け継がれはしたが、フェリーニ、アントニオーニ、パゾリーニは象徴的表現をネオレアリズモから抽出した点で、正統派を超えていた。フェリーニは『青春群像』(1953)で自伝的青年像を描き、救いの願望をそこに託したが、『道』(1954)はそれを人間と神のかかわりにおいてみごとに具象化した。彼のリアリズムからはつねに精神の動きが象徴化されて浮かび上がるのである。『甘い生活』(1960)はそれらの集大成的作品であると同時に、ひるがえって社会批判をも加えた傑作であった。アントニオーニは『さすらい』(1957)では人間の孤独を、『情事』(1960)、『夜』(1960)、『太陽はひとりぼっち』(1962)の三部作では男女間のコミュニケーションの欠如をテーマとして、象徴的な心情風景の表現に独自の芸術境をみせたが、とくに「物」の細部の描写にはヌーベル・バーグと通じる点もあった。パゾリーニは元来詩人で小説家である。ローマのスラム街に生きる底辺の人々を見つめた初期の『アッカトーネ』(1961)や『マンマ・ローマ』(1962)はネオレアリズモ直系であったが、『奇跡の丘』(1964)によって叙事詩的象徴の新境地を開いた。そして『アポロンの地獄』(1967)は古代現代に通じる神話的象徴の映画であった。さらに現代神話『テオレマ』(1968)では、キリストが現代社会の破滅を実現しようとした点に彼の思想的立場の具体的表現があった。1950年代末から1960年代にデビューした有望な監督のなかには、『時は止まりぬ』(1959)のエルマンノ・オルミ、『殺し』(1961)のベルナルド・ベルトルッチ、『オルゴソロの盗賊』(1961)のビットリオ・デ・セータVittorio De Seta(1923―2011)、『ポケットの中の握り拳(こぶし)』(1965)のマルコ・ベロッキオMarco Bellocchio(1939― )、『火刑台の男』(1962)のタビアーニ兄弟がいる。第二次世界大戦後のイタリア経済の復興は、バラ色のネオレアリズモとよばれたレナート・カステラーニの『2ペンスの希望』(1952)を準備し、ここからイタリア社会の歴史や風俗を風刺的にとらえたイタリア式喜劇が派生した。イタリア国内でもっとも人気を博したこのジャンルの代表作には、ルイジ・コメンチーニLuigi Comencini(1916―2007)の『パンと恋と夢』(1953)やマリオ・モニチェッリMario Monicelli(1915―2010)の『いつもの見知らぬ男たち』(1958)があげられる。また、黒澤明の時代劇を西部劇に翻案したセルジョ・レオーネの『荒野の用心棒』(1964)が、日本ではマカロニ・ウェスタンとよばれたイタリア式西部劇の一大流行を引き起こしたことも忘れられない。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
TV映画と作家主義
極左勢力の台頭した1970年代に入ると、イタリアの映画産業は下降線をたどる一方、1950年代に始まったイタリア放送協会(RAI(ライ))の映画製作が本格化してゆく。RAIの映画製作には二つの柱があり、その一つは史劇映画の伝統を生かした「ミニ・シリーズ」の制作であった。その代表作はレナート・カステラーニの『レオナルド・ダ・ビンチの生涯』(1971)である。もう一つは作家主義を核にした作品であり、初期ネオレアリズモのルネサンスとしてとらえることができる。ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺のオペラ』(1970)やフェリーニの『道化師』(1970)から本格的に始動し、タビアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』(1977)とオルミの『木靴の樹(き)』(1978)が、1977年度と1978年度のカンヌ国際映画祭パルム・ドール(グランプリ)を連続して受賞した。作家の現実をみる目の主観性は、抑制が限りなくきいているのが一般的な特徴である。『父 パードレ・パドローネ』はサルデーニャ島の羊飼いから言語学者となったガビーノ・レッダGavino Ledda(1938― )の自伝を、『木靴の樹』は19世紀末の北イタリア、ベルガモの農村生活を描いた。ネオレアリズモが最初から包含していた地方主義を、さらに自己の作風によって深化させる、そこにイタリア映画の活力の根源をみることができる。タビアーニ兄弟は続く『サン・ロレンツォの夜』(1982)ではファシストへの抵抗を、『カオス・シチリア物語』(1984)ではルイジ・ピランデッロの小説世界を描きながら、抑制のきいた作風を展開している。これはフランチェスコ・ロージの『エボリ』(1979)にも共通した姿勢である。『エボリ』はイタリア南部の僻村(へきそん)ルカニア地方のファシズム前夜(1935)を描き出したものである。
1970年代にイタリア映画を牽引(けんいん)した作家は、ベルトルッチとマルコ・ベロッキオMarco Bellocchio(1939― )である。ベルトルッチは『暗殺の森』(1971)にみられるような政治的・社会的見地からの優れた映画をつくり、男女の性愛を凝視した『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)をはさんで、『1900年』(1976)ではファシズム時代を5時間16分にわたる叙事詩として展開した。ベロッキオは『精神病者に自由を』(1975)や『凱旋(がいせん)行進』(1976)で個人を抑圧する制度に痛烈な批判を加え、『虚空への跳躍』(1979)で凝縮した作劇術の極みに達した。犯罪物や政治ミステリーにも、エリオ・ペトリElio Petri(1929―1982)の『殺人捜査』(1970)やジュリアーノ・モンタルドGiuliano Montaldo(1930―2023)の『死刑台のメロディ』(1971)のような反体制的意図の佳作がある。リリアーナ・カバーニLiliana Cavani(1933― )の『愛の嵐』(1974)は、アウシュビッツ収容所で出会った男女の後日談を退廃美にまで高めた。イタリア式喜劇の後継者であるエットレ・スコーラは、『あんなに愛し合ったのに』(1974)で元パルチザンの3人を通して第二次世界大戦後の高度成長を再読し、同じくリーナ・ウェルトミュラーLina Wertmüller(1928―2021)は『セブン・ビューティーズ』(1974)で、男性中心主義への批判的まなざしでファシズム時代をとらえ直した。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
新しい喜劇の登場と拡散するイタリア映画
1970年代末から1980年代にかけては、『青春のくずや~おはらい』(1978)のナンニ・モレッティNanni Moretti(1953― )、『ラタタプラン』(1979)のマウリツィオ・ニケッティMaurizio Nichetti(1948― )、『最高』(1980)のカルロ・ベルドーネCarlo Verdone(1950― )、『三からもう一度』(1981)のマッシモ・トロイージMassimo Troisi(1953―1994)、『君は僕を混乱させる』(1983)のロベルト・ベニーニRoberto Benigni(1952― )など、作家性の強い「新しい喜劇」をつくる新人が登場し、興行的にも成功を収めるようになった。イタリアの政治状況にもっとも敏感なモレッティは、自伝的な人物を繰り返し演じ続け、『親愛なる日記』(1993)と『エイプリル』(1998)では、左派の危機を日記風に綴った。ナポリ喜劇の伝統を受け継ぐトロイージは、遺作となった『イル・ポスティーノ』(1994)では演技に専念し、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。『ジョニーの事情』(1991)ではマフィアを、『怪物』(1994)では警察を風刺したベニーニは、国内最大のヒットメーカーへと成長し、ユダヤ人の虐殺を悲劇すれすれの喜劇として成立させた『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)では、アカデミー外国語映画賞と主演男優賞に輝いた。これらの「新しい喜劇」は、自作自演のコメディアンの魅力を武器にして、比較的低予算で製作することが可能だった。
さまざまなテーマに拡散する1990年代のイタリア映画界にあって、ネオレアリズモの伝統を受け継ぎもっとも高く評価されたのは、ジャンニ・アメリオGianni Amelio(1945― )である。『宣告』(1990)ではファシズム、『小さな旅人』(1992)では児童売春、『ラメリカ』(1994)ではアルバニア難民を取り上げ、二人の兄弟を通して南北の経済格差を扱った『いつか来た道』(1998)で、1998年のベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)に輝いた。清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を主人公にしたベルトルッチの『ラストエンペラー』(1987)は、イタリア映画の伝統をひく「史劇映画」を長時間ものとして生かし、アカデミー作品賞に輝いた。その後『シェルタリング・スカイ』(1990)のサハラ砂漠、『リトル・ブッダ』(1993)のインドと世界彷徨(ほうこう)の旅を続け、『魅せられて』(1996)で故郷のトスカーナに帰還した。『シャンドライの恋』(1998)では、アフリカからローマへ逃れてきた女性とイギリス人男性音楽家という、肌の色の違う二人の愛と官能豊かなエロティシズムを描いた。ベロッキオは『肉体の悪魔』(1986)で文芸映画に政治運動を絡ませ、夢と現実、現実と狂気を往還する『蝶(ちょう)の夢』(1994)を手がけた。オルミはグロテスク趣味の『偽りの晩餐(ばんさん)』(1987)に続いて、寓話的な『聖なる酔っぱらいの伝説』(1988)でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞、「撮影機をもった詩人」と評された。カバーニは『フランチェスコ』(1989)において13世紀のイタリアで修道生活を送ったフランチェスコの半生を、彼を愛したキアラの回想によって描いた。ロージは、『遥(はる)かなる帰郷』(1996)で死地から生還する旅を描いた。新人ではジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)とガブリエーレ・サルバトーレスGabriele Salvatores(1950― )の『エーゲ海の天使』(1991)が、アカデミー外国語映画賞を獲得して注目された。シチリアの閉塞性を映画館という空間に投影したトルナトーレは、『記憶の扉』(1994)や『海の上のピアニスト』(1999)でも主人公を虜にする空間への相反感情を露(あらわ)にする一方、国外への脱出願望とユートピア幻想を冷笑的に語ったサルバトーレスは、『ニルヴァーナ』(1997)でSFに挑戦した。
[飯島 正・鳥山 拡・西村安弘]
多民族多文化の時代
21世紀初頭のイタリア映画には、イタリア社会における多民族多文化性が、よりいっそう鮮明に反映されるようになった。トルコ出身のフェルザン・オズペテクFerzan Ozpetek(1959― )は、こうした多民族性多文化性の時代を代表する監督である。オズペテクはオリエンタリズムを裏返した『ハマム トルコ風呂』(1997)で注目された後、『無邪気な妖精たち』(2001)や『向いの窓』(2003)、『明日のパスタはアルデンテ』(2010)などのコメディやメロドラマのなかで、イタリアにおける同性愛者や不法移民、異教徒などの社会的マイノリティを取り上げた。マルコ・トゥッリオ・ジョルダーナMarco Tullio Giordana(1950― )は、6時間14分のテレビ映画『輝ける青春』(2003)で、対照的な兄弟を通して高度経済成長以降の現代史を大河ドラマに仕立てた後、イタリア人少年と不法移民であるルーマニア人兄妹とのつかのまの邂逅(かいこう)を描いた『13歳の夏に僕は生まれた』(2005)を発表した。寡作で知られるビットリオ・デ・セータVittorio De Seta(1923―2011)も、アフリカからの不法移民がイタリア社会の差別と搾取に傷つく過程をデジタル・ビデオでドキュメンタリー的にとらえた『サハラからの手紙』(2006)で、劇映画への復帰を果たした。
2011年にイタリアは建国150周年を迎える一方、財政危機が表面化し、シルビオ・ベルルスコーニ首相が退陣へと追い込まれる事態となった。イタリアの歴史的結節点を目前にした新しい世代の監督は、ネオレアリズモの伝統へ回帰しながら、近代史の読み直し作業に意欲的に取り組んだ。マリオ・マルトーネMario Martone(1959― )の『われわれは信じていた』(2010)は、青年イタリア党の挫折を通して近代国家成立の苦渋を描き、ジョルジョ・ディリッティGiorgio Diritti(1959― )の『やがて来る者へ』(2009)は、ナチス・ドイツによる大量虐殺の記憶を呼び覚ました。マッテオ・ガッローネMatteo Garrone(1968― )の『ゴモラ』(2008)は、ナポリの犯罪組織カモッラの実態に迫ったノンフィクション小説『死都ゴモラ』の映像化で、パオロ・ソッレンティーノPaolo Sorrentino(1970― )の『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』(2008)は、マフィアとの親密な交友を噂されたジュリオ・アンドレオッティ元首相の人物像に迫った。
喜劇の分野では、ベニーニが国民的児童文学を映画化した『ピノッキオ』(2002)で、歴代の興行記録を塗りかえた後、『人生は、奇跡の詩(うた)』(2005)でイラク戦争への批判を自己流に展開してみせた。モレッティは家族の喪失を抑制されたホームドラマに結晶させた『息子の部屋』(2001)でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得した後、『カイマーノ』(2006)では政治映画を完成しようとするプロデューサーの苦闘を、『ローマ法王の休日』(2011)ではカトリックと精神分析を対置させながら、現代の宗教的指導者の抱える不安を諧謔(かいぎゃく)的に描いた。社会的な関心の強いベテラン監督のなかでは、『ドリーマーズ』(2003)で五月革命とヌーベル・バーグへの郷愁に耽溺したベルトルッチに対して、ベロッキオの活躍がとくに目覚ましい。無神論的立場からカトリックの宗教的儀式を眺めた『母の微笑』(2002)やマンゾーニの古典文学『婚約者』を下敷きに、自己反省的な世界を構築した『結婚演出家』(2006)などと並行して、赤い旅団によるモロ首相暗殺事件を扱った『夜よ、こんにちは』(2003)や、ファシズム政権によって抑圧されたイーダ・ダルセルIda Dalser(1880―1937)の半生を追った『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2009)では、政治と狂気の親和的な関係に焦点を当てた。『ジョヴァンニ』(2001)で火器の登場による人類の歴史的転換をリアリズム劇としたオルミは、寓話(ぐうわ)的なファンタジーである『屏風(びょうぶ)の陰で歌う』(2003)および『ポー川のひかり』(2006)を発表した後、劇映画からの引退を表明したが、ドキュメンタリー映画『テッラ・マードレ 母なる大地』(2009)で健在ぶりを示した。タビアーニ兄弟は、オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺を取り上げた『ひばり農園』(2007)に引き続き、刑務所内で囚人にシェークスピア劇を上演させる『シーザー死すべし』(2012)で、ベルリン国際映画祭金熊賞を獲得した。児童問題に特別な関心を抱いているアメリオは、障害児を抱えた父親の悛巡(しゅんじゅん)を凝視した『家の鍵(かぎ)』(2004)、イタリア人技師と中国人通訳の交流を丹念に描いた『星なき夜に』(2006)の後、アルベール・カミュの遺作を映画化した『最初の人間』(2012)で、アルジェリア在住フランス人の少年時代を回想した。
[西村安弘]
『飯島正著『イタリア映画史』(1953・白水社)』▽『吉村信次郎著『イタリア映画史』(『世界の映画作家32』所収・1976・キネマ旬報社)』▽『飯島正著『名監督メモリアル』(1993・青蛙房)』▽『柳沢一博著『イタリア映画を読む――リアリズムとロマネスクの饗宴』(2001・フィルムアート社)』▽『ジャン・ピエロ・ブルネッタ著、川本英明訳『イタリア映画史入門 1905―2003』(2008・鳥影社)』▽『Pierre LeprohonThe Italian Cinema(1972, Secker & Warburg)』▽『Peter BondanellaThe Italian Cinema(1983, Fredric Unger)』