リッチモンド(読み)リッチモンド[はく・こうけ](英語表記)Richmond, Earls and Dukes of

デジタル大辞泉 「リッチモンド」の意味・読み・例文・類語

リッチモンド(Richmond)

米国バージニア州の州都。同州東部、ジェームズ川下流にある河港都市。タバコ製造・化学工業が盛ん。南北戦争中は南部側の首都となった。
オーストラリア、タスマニア州南東部の町。州都ホバートの北東約20キロメートル、コール川沿いに位置する。1820年代に流刑囚によって造られた同国最古の石橋やジョージア様式の建物など、歴史的建造物が数多く残っている。周辺は穀倉地帯、ワイン産地として知られる。
リッチモンドアポンテムズ
カナダ、ブリティッシュコロンビア州南西部の都市。バンクーバーの南に隣接し、都市圏の一部を成す。バンクーバー国際空港が所在。中国系をはじめ、同国の中でもアジア系移民の割合が大きい。

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精選版 日本国語大辞典 「リッチモンド」の意味・読み・例文・類語

リッチモンド

  1. ( Richmond )
  2. [ 一 ] イギリスロンドンの南西郊、テムズ川の左岸にある衛星都市。住宅地、行楽地。
  3. [ 二 ] アメリカ合衆国バージニア州の州都。同州中東部、ジェームズ川の北岸に臨む商工業の中心地。一八六一年、南北戦争のとき南部盟合の首都となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リッチモンド」の意味・わかりやすい解説

リッチモンド(伯・公家)
リッチモンド[はく・こうけ]
Richmond, Earls and Dukes of

イギリスの貴族の家柄。伯家は中世に創始。サボイ(サボイア)生まれで 1240年訪英してヘンリー3世によって叙任されたピーター・オブ・サボイ(1268没)が有名で,ロンドンのサボイ宮にその名を残している。15世紀にはチューダー家(→チューダー朝)のエドマンド(1430?~56)が,1453年にリッチモンド伯に叙され,その子ヘンリーはヘンリー7世として即位した。公家は 16世紀からで,ヘンリー8世がエリザベス・ブラウントとの間にもうけた庶子ヘンリー・フィッツロイ(1519~36)に授けたのに始まる。しかし,彼は若年で死没し(アン・ブリンに毒殺されたともいわれる),1代で断絶。次いで 1623年スコットランドの貴族リュードビック・スチュアート(1574~1624,スコットランド貴族としては 2代レノックス公)に与えられた。彼はスコットランドの王位継承権をもつ名門貴族で,海軍長官,枢密顧問官などの要職を歴任。この公家も彼の死でとだえたが,その甥ジェームズ・スチュアート(1612~55,4代レノックス公)が,清教徒革命前夜の対立と緊張のなかで国王を支持した功により,1641年チャールズ1世からあらためて初代公に叙された。その甥の 3代公チャールズ(1639~72,6代レノックス公)は,清教徒革命中フランスに難を避け,王政復古後帰国してチャールズ2世に仕えた。1667年宮廷の侍女で,「美姫スチュアート」と呼ばれたフランシス・テリーザと宮廷から駆け落ちし,のち宮廷に戻ったが,彼をもってこの公家が絶えた。1675年チャールズ2世は愛妾クルーアルとの間に生まれた庶子チャールズ・レノックス(1672~1723)を公爵に叙し,レノックス家のリッチモンド公家を創設,その家系が現在にいたっている(→レノックス〈伯・公家〉)。初代公はアン女王やジョージ1世の時代に侍従長や枢密顧問官を務めた。3代公チャールズ(1735~1806)は軍人として七年戦争で武功を立てたのち,パリ特派大使(1765),国務大臣(1782~95)を務めた。5代公(1791~1860)も 1810~14年の半島戦争中ウェリントン公の副官を務めた軍人で,晩年は王立農業協会の総裁に就任した。

リッチモンド
Richmond

アメリカ合衆国,バージニア州の州都。ワシントン D.C.の南方 160km,ジェームズ川が滝をなす付近に立地し,温暖な気候に恵まれている。かつての通商居留地を起源とし,早くからバージニアタバコの集散地として栄え,インディアンとの攻防の歴史を経て 1780年州都となった。南北戦争時代は南部の首都として北軍の重要軍事目標とされた。 1930年代の不況に耐え,第2次世界大戦の勃発で産業は躍進した。史跡に富み,G.ワシントンの彫像のある議事堂やアメリカ独立戦争の際の P.ヘンリーが「自由か死か」の演説を行なったセント・ジョン教会も現存する。近郊にリッチモンド国立戦場公園がある。商都として広範囲の商圏を誇り,工業もたばこ,薬品,織物などをはじめとして多種に及ぶ。またリッチモンド大学,バージニア美術館,バージニア州立図書館など教育施設も完備している。ロバート・リー邸,エドガー・ポー記念館などがある。人口 20万4214(2010)。

リッチモンド
Richmond

オーストラリア,タスマニア州南東部の町。ピットウォーター潟湖の湖頭に位置し,コール川にのぞむ。 1815年タスマニアで最初の製粉所が建設されたところで,23年コール川に橋がかけられ,26km南西にあるホバートおよびタスマン半島への通路が開かれた。 25年町が建設され,30年代はコムギ栽培で繁栄したが,72年ピットウォーター潟湖を横断するバイパスが建設されてからは寂れた。国内最古のローマ・カトリック教会がある。人口 693 (1986) 。

リッチモンド
Richmond

アメリカ合衆国,ケンタッキー州中東部の都市。レキシントン=フェーエットの南南東 39km,カンバーランド山麓の旧ワイルダネス街道に沿う。 1784年入植。南北戦争のときは両軍の争奪の目標となった。現在はタバコ,家畜,トウモロコシなどの農産物の取引,輸送の中心地で,軽工業がいくらか発達。イースタンケンタッキー大学 (1906創立) の所在地。人口2万 1155 (1990) 。

リッチモンド
Richmond

アメリカ合衆国,インディアナ州中東部にある都市。 1806年奴隷制度に反対するクェーカー教徒 (フレンド派) によって創設された。 40年市制。クェーカー派の中心地で,アールハム大学 (1847創立) がある。早くから工業が発達し,現在は金属・機械工業が盛んである。人口3万 8705 (1990) 。

リッチモンド
Richmond

アメリカ合衆国,カリフォルニア州の港市。サンフランシスコ湾の北東岸に位置し,1900年サンタフェ鉄道の終着駅となり,サンフランシスコとの間にフェリーが通じた。石油精製,鉄道車両,食品加工などの工業が発達。太平洋岸における重要港湾の1つ。人口8万 7425 (1990) 。

リッチモンド
Richmond

オーストラリア,ニューサウスウェールズ州東部,シドニーの北西 46kmにある都市。長い歴史をもち,野菜など園芸農業で発達。シドニーへの通勤者も増加。ウィンザーの町と一体化している。人口1万 7088 (1986) 。

リッチモンド

「スタテン島」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リッチモンド」の意味・わかりやすい解説

リッチモンド(アメリカ合衆国、バージニア州)
りっちもんど
Richmond

アメリカ合衆国、バージニア州東部の都市で、同州の州都。人口19万7790(2000)。ジェームズ川の遡航(そこう)の終点に位置し、1931年の河道改修やその後の港の改修で大洋航行船も接岸できるようになった。同州中央部の卸・小売業、金融、流通の中心地である。伝統的なたばこ製造と化学工業が重要な工業で、そのほかにも繊維、衣服、食品加工、金属、製紙・紙製品、印刷・出版業が盛んである。

 リッチモンド大学、バージニア・ユニオン大学、バージニア州立大学や、心臓・腎臓(じんぞう)移植で有名なバージニア医科大学などの大学と図書館、バージニア美術館、かつて南部連合の臨時大統領のジェファソン・デービスの住宅であった南軍博物館、エドガー・アラン・ポー博物館がある。また、1775年にパトリック・ヘンリーの「自由か死か」の演説が行われたセント・ジョンズ教会、トーマス・ジェファソンの設計による州議事堂、南軍の指導者の銅像が並ぶモニュメント・アベニューなども有名である。

[菅野峰明]

歴史

ジェームズ川の交易中心地として、17世紀中ごろより発展をみせ、1779年バージニア州の州都となった。南北戦争期には、南部連合の首都がリッチモンドに置かれ、北軍による攻略の主要目標とされる。南北戦争の最後の戦闘は、1865年4月1日のリッチモンドをめぐる攻防(リッチモンドの戦い)となった。南部連合軍総司令官リー将軍は、シャーマン将軍、グラント将軍の指揮下にある3倍もの北軍を相手に最後の絶望的な戦いを行うが、4月2日、首都リッチモンドを捨てて撤退を余儀なくされ、市の大半は焦土と化した。1週間後の4月9日、リー将軍は西方128キロメートルにあるアポマトックスにおいて北軍に降服し、南北戦争は終結した。

[長田豊臣]


リッチモンド(Mary Ellen Richmond)
りっちもんど
Mary Ellen Richmond
(1861―1928)

アメリカ合衆国におけるケースワークの最初の体系的理論家。19世紀後半から展開した慈善組織協会運動のなかで働き、貧困者に対して、自立的生活に向かわせる意欲と能力を引き出す友愛訪問活動を実践した。その経験からケースワークの技術が形成されてゆくが、その体系的理論をまとめて、「ケースワークの母」とよばれる。主著は『社会診断』(1917)、および『ソーシャル・ケースワークとは何か』(1922)などで、いずれも、ケースワーク理論、社会事業技術の科学的理論の古典と評価されている。

[副田義也]


リッチモンド(アメリカ合衆国、ニューヨーク市)
りっちもんど
Richmond

アメリカ合衆国、ニューヨーク市南西部の区、スターテン島の旧称。

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「リッチモンド」の意味・わかりやすい解説

リッチモンド
Mary Richmond
生没年:1861-1928

アメリカの社会事業家で〈ケースワークの母〉とよばれた。ボルティモアの慈善組織化協会に事務員として勤務する中で社会事業に興味をもち,協会が行っていた友愛訪問が,道徳的基準によって対象をふるいわけている方法に疑問を感じ,科学的処遇技術としてのソーシャル・ケースワーク(個別的処遇技術)を体系化した。リッチモンドのケースワーク論は,家庭教師アン・サリバンAnne Sulliven Macyが障害児ヘレン・ケラーに対して行った社会環境を利用して人格の発展を図る教育方法に学んだところから環境決定論的といわれ,心理主義的な立場にたつケースワーク論に対比される。代表的な著書に《社会診断》(1917)および,《ソーシャル・ケースワークとは何か》(1922)がある。
執筆者:


リッチモンド
Richmond

アメリカ合衆国バージニア州中東部の州都で,同州最大の都市。人口19万3777(2005),大都市域人口90万(1992)。ジェームズ川に面し,18世紀以来アパラチア山麓の滝線上の河港都市として発展,1779年にはウィリアムズバーグに代わってバージニア植民地の主都となり,独立後そのまま州都となる。19世紀前半はタバコの集散地として発展し,奴隷売買の中心地でもあった。南北戦争中はアメリカ南部連合の首都になったが,激戦のため市街の大半は壊滅した。現在,化学,食品加工工業も行われるが,依然としてタバコの集散と加工(フィリップ・モリス・タバコ工場など)が中心産業である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「リッチモンド」の意味・わかりやすい解説

リッチモンド

米国,バージニア州中東部の州都で商工業都市。アパラチア東麓の滝線都市で,ジェームズ川に臨む。交通の中心。タバコ,繊維,製紙,肥料,機械などの工業が盛んで,金融の中心地でもある。南北戦争ではアメリカ南部連合の主都となった。20万4214人(2010)。

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世界大百科事典(旧版)内のリッチモンドの言及

【スタテン[島]】より

…アメリカ合衆国ニューヨーク市の島。ニューヨーク市の5自治区の一つで,1975年まではリッチモンドRichmond区と呼ばれていた。面積166km2,人口37万9000(1990)。…

【ケースワーカー】より

…社会生活上の問題をみずから解決することが困難なために,専門的なサービスを必要としている個人または家族に対して,個別的な援助を与える専門技術がソーシャル・ケースワークsocial caseworkであり,それを行う専門家がケースワーカーである。ケースワークは,第1次大戦後のアメリカにおいて,M.E.リッチモンドによって体系化され,日本には大正末期に紹介された。第2次大戦後の日本ではリッチモンドの社会学的な診断主義ケースワークに加えて,心理学的・精神医学的な機能主義ケースワークが導入され,ケースワークのあり方をめぐる議論が活発化し社会科学の立場からのケースワーク批判もなされている。…

※「リッチモンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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