フランス新古典主義期の最も独創的な建築家。シャンパーニュ地方ドルマンDormansの商人の家に生まれ,パリに出てJ.F.ブロンデルのもとで建築を学ぶ。その作品集《芸術と道徳および法治の観点より見た建築》2巻(1804,46)中の奇抜な空想的建築の計画案でひろく知られるが,実作品のうえでも大胆な試みを重ね,大革命期を代表する建築家であった。同時代のブレーらと同様,古典様式を抽象化した直截なボリューム表現をとる一方,パラディオ・モティーフ(A.パラディオ)などを駆使した記号的表現によって,建築の内容を直接的に人びとに語りかける,独自の〈語りかける建築architecture parlante〉の手法をつくり出した。彼の無装飾の前衛的なボリューム表現は,近代主義の先駆としてもてはやされることがあるが,近代建築の機械主義の美学とは異なり,建築とそれをとりまく環境とを,ひとつの建築的表現語法の体系により統合するために必要となったものであった。作品集1巻の大半を占める理想都市ショーChauxの計画案には,そのことが最も顕著に表れている。これは彼が手がけた,ブザンソン近郊アルケ・スナンArc-et-Senansの王立製塩工場(1775-79)を空想的に発展させたもので,奇警な都市施設が開放的な自然環境の中に展開している点が注目される。彼はルイ15世の愛人デュ・バリー夫人をはじめ,有力なパトロンにめぐまれ,壮麗なパリの邸宅(オテル。多くは現存せず)や大規模な公共建築を数多く手がけ,王室建築家,アカデミー会員として華々しく活躍したが,彼の野心的計画は予定工費を超過して問題を起こしがちであった。特に大革命直前,国庫の歳入不足を補う目的で設けられ,市民の怒りを買った,パリ入市税徴収のための閘門施設(1784-89。54ヵ所の事務所,閘門のうち四つ現存)を手がけた頃から,公然たる非難を浴び,革命の騒乱中には王党派の疑いで一時投獄された。晩年は仕事もなく,作品集の編纂に専念した。
執筆者:福田 晴虔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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フランス新古典主義の建築家。マルヌ県ドルマンに生まれる。パリに出てフランソア・ブロンデルのもとで修業。一度もイタリアを訪れたことがなかったが、イタリア建築に深く影響され、とくに古代ローマの遺構を題材にしたピラネージの版画は、彼の建築イメージの供給源となった。1771年以降ルイ15世の寵姫(ちょうき)デュ・バリー夫人から設計を委嘱されるようになり、ルーブシェンヌの別邸を建てたが、この建物はフランス新古典主義の標本といわれるほど多彩なモチーフで装われている。そのほかパリのオテル・テリュッソン(1780)など多数の邸館を設計したが、独自の構想による建築スケッチを集めた『美術、風俗、法規の諸点からみた建築』(1804)によって近年彼の評価が高められた。
[濱谷勝也]
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