レオアフリカヌス(英語表記)Leo Africanus

改訂新版 世界大百科事典 「レオアフリカヌス」の意味・わかりやすい解説

レオ・アフリカヌス
Leo Africanus
生没年:1489以後-1550以前

ムーア人文人,旅行家。カトリック勢力がイベリア半島を奪回した後の16世紀に,イスラム,黒人アフリカ,カトリックの三世界に生き,貴重な見聞録を残した。イスラム教徒としてグラナダに生まれ,名はハサン・ブン・ムハンマド・アルワッザーン・アッザイヤーティーal-Ḥasan b.Muḥammadal-Wazzān al-Zayyātī。グラナダの陥落(1492)後,モロッコに渡って教育を受け,17歳のころ伯父に伴われてサハラの南に当時栄えていた黒人帝国ソンガイに行き,数年後再びこの地を訪れ,エジプトまで旅をした。1518年ころトルコを訪れた帰途シチリアの海賊に捕らわれ,ローマに送られて教皇レオ10世の知遇を得た。教皇の名を与えられて受洗し,〈アフリカのレオ〉と通称される。口述筆記による見聞録《海と陸の旅》が50年ベネチアで出版されて反響を呼び,後に《アフリカ誌》の名で広く知られるようになった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レオアフリカヌス」の意味・わかりやすい解説

レオ・アフリカヌス
れおあふりかぬす
Leo Africanus
(1493―1552ころ)

16世紀初頭にアフリカのスーダン地方を探検した、ムーア人の旅行家。スペインのグラナダでイスラム教徒として生まれ、モロッコのフェズで教育を受けた。1510~13年ごろスーダン地方を旅行し、最盛期のソンガイ帝国の都トンブクトゥやハウサ諸王国カネム帝国を占拠したブララ王国などを訪問した。1518年にチュニス付近で海賊船に捕らえられローマに連行されたが、ローマ教皇レオ10世によってその業績を認められた。教皇からジオバンニ・レオニという名を与えられたが、一般にはレオ・アフリカヌス(アフリカのレオ)とよばれた。

 1526年に見聞録『アフリカの歴史と地誌』が完成し、50年にイタリア語版、1660年に英語版が刊行され、のちに『アフリカ誌』の著名で広く知られるようになった。同書にはニジェール川が東から西へ流れているという誤謬(ごびゅう)もあるが、当時の黒人アフリカの史料として重視されている。

[中村弘光]

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百科事典マイペディア 「レオアフリカヌス」の意味・わかりやすい解説

レオ・アフリカヌス

ムーア人の旅行家。本名は,ハサン・ブン・ムハンマド。スペインのグラナダで生まれ,モロッコのフェズで教育を受けたのち,西アフリカのソンガイ帝国ハウサ諸国を訪れ,さらにスーダン東部を越えてエジプトまで旅行した。のちに教皇レオ10世の保護のもとでイスラムからキリスト教へと改宗し,教皇の名を与えられてレオ・アフリカヌス(〈アフリカのレオ〉)として知られるようになった。彼の旅行記《アフリカ誌》は,1550年にまずイタリアで出版され,その後ヨーロッパの諸言語に翻訳されて広く読まれた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「レオアフリカヌス」の解説

レオ・アフリカヌス
Leo Africanus

1490頃~1550頃

アラブ人旅行家,文人。1492年ナスル朝の都グラナダ陥落後,サハラ交易に従事し,ソンガイ帝国マリ帝国,カイロなどを歴訪。のち海賊の捕虜としてローマ教皇レオ10世に献上され「アフリカのレオ」の名を得て『アフリカ誌』(1550年)を口述した。

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