改訂新版 世界大百科事典 「ローマ没落史観」の意味・わかりやすい解説
ローマ没落史観 (ローマぼつらくしかん)
ローマ没落の問題をめぐって展開されたさまざまな歴史観の総称。ローマを一つの優れた文明・秩序の象徴とみなすローマ理念と相まって,ローマ没落が単に一帝国の消滅というにとどまらず,古代世界全般の崩壊,さらには文明一般の没落・交替の典型としてとらえられてきたため,この問題はローマ帝国盛衰原因論,古代文化没落原因論,古代中世境界論などの形で,おのおのの時代意識を反映させつつ多くの考察を生み出した。なお,この場合のローマとは通例いわゆる西ローマ帝国を指すが,没落原因論が多様であると同様,没落時期についても西ローマ帝国が消滅した476年という伝統的年代で一致しているわけではない。A.J.トインビーやウォールバンクF.W.Walbankのように,すでに前5世紀ギリシアのポリス世界に古代文明没落の徴をみる説から,7世紀中葉以後のアラブの進出まで古代地中海世界は存続していたと説くH.ピレンヌ説までさまざまである。
古代
ローマ没落観は,すでにローマ興隆期から存在した。ポリュビオスやアッピアノスは,前146年炎上するカルタゴを前にして,将軍小スキピオが〈ローマもいつの日か同じ運命に遭わん〉と心中憂えたことを伝えているが,これは外敵の制圧は内での退廃を招くという当時ローマ人が抱いていた危惧を反映しており,このような没落の観念はポリュビオスの政体循環論に影響を与えた。共和政末期の混乱は未来に対する悲観論に拍車をかけ,サルスティウスは〈すべて生まれしものは死す。成長せしものは老いる〉と述べ,ホラティウスは内乱と道徳の乱れに国家の終末を予見した。それがゆえにアウグストゥスによる内乱終結と元首政樹立は〈永遠のローマ〉理念の謳歌を生み出すが,ローマ没落観は帝政期にもなお存続した。セネカは〈すべて死すべき者がなせし事は死すべき運命にある〉と述べて自らの時代を人間の老年にたとえ,2世紀の歴史家フロルスはカルタゴ炎上からグラックス兄弟の改革までの時期にローマ国家の変容を認めた。
他方,ユダヤ教や原始キリスト教はローマの支配を断罪し,ローマ帝国を《ダニエル書》のいう滅ぶべき第四の帝国とみなした。帝政末期の危機は〈世界の老齢化〉を当時の人々に痛感させ,〈永遠のローマ〉理念を再燃させる一方で,その老齢化の責任をめぐる論争を引き起こした。アンミアヌス・マルケリヌスのように道徳的堕落という伝統的原因論をとる者もいたが,異教勢力はまた帝国のキリスト教化に衰退の主因をみた。これに対してキリスト教側はキリスト教的ローマ理念をもって対抗するが,410年西ゴートによるローマ市略奪ののち,異教徒に対して最も有効な論駁(ろんばく)をなしえたのは,〈神の国〉と〈地の国〉を区別するアウグスティヌスの《神の国》であった。しかし,古代末期の知識人層は一般に地上のローマ帝国の永続を信じるローマ理念から脱却しきれず,ルティリウス・ナマティアヌスら異教徒にせよ,オロシウスらキリスト教徒にせよ,現今の老齢化が死に至るものであるとは予知せず,なお帝国の若返りを信じていた。
中世から近代へ
中世においては,フライジングのオットーが《ダニエル書》の四世界帝国説に従って歴史叙述を行い,西ローマ帝国滅亡に神の審判をみて地上の権力のはかなさを説いたが,同時に彼は476年は狭義のローマ帝国の終焉(しゆうえん)にすぎず,帝権はフランク人に移行したとする。ローマ教皇,神聖ローマ皇帝,ビザンティン皇帝が並び立つ中世にあっては,このような〈帝権の移行〉〈帝国の更新〉という観念に基づくキリスト教的古代との連続感,およびキリスト教的摂理史観が支配的であり,ローマ没落原因論が展開される余地はほとんどなかった。ダンテはギベリン(皇帝派)にくみする立場から,教会に西欧をゆだねて世俗的秩序と精神的秩序の均衡を破ったコンスタンティヌス1世の治政にローマ帝国衰退の始まりをみたが,彼もまたこのような中世的思想界の枠内にとどまっていた。ルネサンス期,現実の都市ローマの凋落(ちようらく)と遺跡が語る過去の栄光は,イタリア人文主義者の間に愛国的ローマ理念を芽生えさせ,同時に中世との訣別の自覚は彼らをして古代と中世の境界に目を向けさせた。ペトラルカは共和政的自由の終焉にローマ没落の兆しをみ,フラビオ・ビオンドFlavio Biondoは没落の内因にも目を向けつつ,最終的には西ゴートによるローマ市略奪の年(彼は412年とする)から没落が始まるとした。イタリアの現状救済を第一義としてローマ盛衰原因論を考えたマキアベリは,ポリュビオスの政体循環論を継承しつつ,共和政体をよしとし,カエサル以後の独裁を堕落形態とした。
なおキリスト教的史観はルネサンス以後完全に払拭されたわけではなく,ボシュエの《万国史論》は,私利と暴力の支配などさまざまなローマ没落原因を考察しながらも,なおアウグスティヌス的摂理史観を基幹としていた。啓蒙主義時代に入り,モンテスキューの《ローマ人盛衰原因論》は軍隊の力の増大と,元老院と衆愚に堕した人民の力の逆転に没落の主因を求めた。ボルテールはモンテスキューにも認められる反キリスト教立場をさらに強め,キリスト教公認に没落の原因をみた。これら啓蒙思想の影響の下で,ギボンは大著《ローマ帝国衰亡史》を著し,至福の五賢帝時代における野蛮と宗教の支配に帝国没落の責任を帰し,かつ文明の進歩と理性への信仰を吐露した。
現代
19世紀以後の歴史学の発達は,さまざまな没落原因論を生み出した。それらは内因論と外因論に大別される。内因論のうちモンテスキュー以来の系譜を受けて政治的要因を重視するものとしては,2世紀末における元老院の権威失墜を重視するフェレロG.Ferrero,アウグストゥスの軍隊縮小政策を没落の主因とするコルネマンE.Kornemann,代議政体の欠如による統治者の孤立化と大衆の政治離れを重視するヘイトランドW.E.Heitlandらがいる。ギボンが強調した宗教的要因は,近年モミリアーノA.Momiglianoによりキリスト教会への最良者の吸収という形で再評価された。自然科学的方法の援用は,19世紀末から20世紀初頭にかけて,地力消耗を没落原因とするJ.vonリービヒやシンコービチG.Simkhovitch,気候変動と没落の関連を説くE.ハンティントンらの自然的要因を重視する見解を生んだが,これらに対してはM.I.ロストフツェフによる鋭い批判がある。医学や生物学の進歩は人間的要因にも目を向けさせ,ゼークO.Seeckの〈最良者の絶滅〉論,人種混交によるローマ市民団の劣性化を説くフランクT.FrankやニルソンM.P.Nilssonの説を生んだが,これらも厳しい批判を浴び,ことにナチズムによる罪禍ののちは影を潜めた。ボークA.E.R.Boakは人口統計学の成果を援用して,人口減少による人力不足を主因とする没落論を展開した。
史的唯物論はそれまでもっぱら上部構造の面から考えられていたローマ帝国盛衰論を,社会経済的構造の面からみる新視点を与えた。ローマの繁栄を〈古代資本主義〉とみてその形成条件の消失に没落原因を求めるM.ウェーバー,コロヌス制(コロナトゥス)の成立に古代の終焉をみるウェスターマンW.L.Westermannも社会経済的要因を重視する立場に立つ。3世紀の危機を都市ブルジョアジーと農民大衆の対立としてとらえて経済的没落原因論を拒否したロストフツェフも,その《ローマ帝国社会経済史》における分析では,市場の外延的拡大に伴う属州の生産地化とイタリアの経済的下降が,帝国の社会経済的構造を崩壊させたとしている。ロストフツェフの立論に影響を受けたウォールバンクは,国内市場の狭隘(きようあい)と奴隷制という古代経済の構造自体に古典古代的都市国家没落の基因をみ,またファシズムへの嫌悪を反映して,後期ローマ帝国を強制を原理とする〈組合国家〉と規定した。ところで,ルネサンス期以来根強い文化没落説--ゲルマンによる古代文明の破壊と中世暗黒時代の導入--を批判して,A.ドープシュは文化連続説を唱え,ピレンヌはアラブの進出まで古代地中海世界の統一は保持されたとした。両者の説はさまざまな実証的批判を受けてはいるが,今日では単純な文化没落説は姿を消し,ローマ没落の問題を価値判断を含む〈没落〉という観点からではなく,古代世界の変容,古代から中世への漸次的移行として考える傾向が強く,内因論の焦点も元首政から専制君主政への移行期である3世紀の危機の構造的解明に当てられている。この問題においてウェーバー,ロストフツェフと並んで影響が大きいのは,3世紀の危機を,都市的土地所有の上に展開した奴隷制ウィラと,都市領域外の私的大所領で発展した分割地小作制という二つの生産様式の間の闘争ととらえるソ連のシタエルマンE.M.Shtaermanの立論である。
他方,これら多様な内因論に対して外因論を採る者としては,対外危機が国内危機を惹起(じやつき)するとして3世紀にユーラシア大陸規模で展開された国際関係にローマ帝国変質の契機をみるアルトハイムF.Altheim,ローマ文明は天寿をまっとうしたのではなく〈暗殺〉されたのだとするピガニョールA.Piganiol,同じく増大するゲルマンの外圧に没落の主因をみるジョーンズA.H.M.Jonesらがいる。これらは文化没落説の再評価ではあるが,〈没落〉の諸現象とされたものを帝国の内的変容としてとらえたうえでの再評価である点は重要である。また20世紀のヨーロッパ学界が生んだ没落史観として,シュペングラーの《西洋の没落》や,トインビーの《歴史の研究》における文明形態論的没落史観も看過できない。最後に,ビザンティン史家ベインズN.H.Baynesが提起した〈西の帝国が滅び,東の帝国が存続したのはなぜか〉という問題は,すべての没落史観が答えねばならない重要な問題であろう。
→ローマ →ローマ理念
執筆者:後藤 篤子
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