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ムガル帝国第6代皇帝。在位1658-1707年。第5代皇帝シャー・ジャハーンの晩年,その4皇子ダーラー・シコー,スルタン・シュジャー,アウラングゼーブ,モラード・バクシュの間で皇位継承戦争が起こり,アウラングゼーブはすぐれた軍事指揮と巧みな政治力で他の兄弟を圧倒して,1658年皇帝に即位した。この内戦では,ヒンドゥー,ムスリムを問わず多くの部将,高官を味方につけたことが,彼の勝因の一つであった。とくに,ペルシア出身でデカンのゴールコンダ王国に仕えていたミール・ジュムラMīr Jumlahは,初期において宰相として彼の支配を確立する上で大いに貢献した。またラージプート諸侯のうち,とくにジャイ・シングやジャスワント・シングらは,初期の約10年間すぐれた部将として活躍した。デカンでは,シバージーが興って以後,北からのムガル支配に反発する動きが激しくなり,このマラータの反乱に直面して,アウラングゼーブはデカンに主力を向けざるをえなくなった。アウラングゼーブは,1680年代にデカン征服を試み,ビジャープルBijāpur王国,ゴールコンダ王国をそれぞれ86年,87年に滅ぼした。アウラングゼーブは1678-79年のラージプート反乱の鎮圧と79年のジズヤ(人頭税)の復活を境にして,それ以前の時代とは,大いに政策を変えたといわれている。1707年までの彼の後半の治世においては,マラータの反乱や各地の農民一揆の鎮圧に手間取り,また帝国の支配構造の根幹であるマンサブダーリー制がゆらいできた。帝国領土の拡大と反比例して,帝国内部の政治的・経済的動揺は急速に激化していった。
→ムガル帝国
執筆者:小名 康之
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1618~1707(在位1658~1707)
ムガル帝国の第6代皇帝。シャー・ジャハーンの三男。若い頃太守としてデカン地方に赴任し,デカンに政治的足場を築いた。1657年秋に始まった皇位継承戦争に勝ち抜いて帝位についた。若い頃からイスラームの信仰に熱心で,一生のうち数度コーランを筆写したという。政治的手腕に優れており,継承戦争においてはヒンドゥーもムスリムも上位の貴族を満遍なく味方につけ,他の兄弟を圧倒した。79~80年のラージプート諸侯の反乱鎮圧後,治世の後半には大々的にデカン征服に乗り出し,帝国の支配領域を拡大した。支配地の安定を図るため首都デリーを離れ,デカンのアウランガーバードで最後を送った。アウラングゼーブはムガル支配領域内でのイスラーム法体系を確立するため,ハナフィー派の法学者を集め,これまでの判例を収集させ,70年頃,大部の判例集『ファターワーイェ・アーラムギーリー』を編纂させた。
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…表現は繊細さを増したが,活力を失い類型的なものが多くなった。アウラングゼーブ帝(在位1658‐1707)は絵画を嫌い画家を宮廷から追放したため,ムガル絵画は急激に衰えてしまった。
※「アウラングゼーブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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