アウンサンスーチー(読み)あうんさんすーちー(英語表記)Aung San Suu Kyi

翻訳|Aung San Suu Kyi

デジタル大辞泉 「アウンサンスーチー」の意味・読み・例文・類語

アウン‐サン‐スー‐チー(Aung San Suu Kyi)

[1945~ ]アウン=サン長女ミャンマーの民主化運動指導者。もと、国民民主連盟NLD総書記長。軍事政権により、1989年から2010年まで、断続的に自宅軟禁下に置かれた。1991年ノーベル平和賞受賞。2012年の連邦議会補選に当選。2016年に発足した民主政権下で外相・大統領府相・国家最高顧問に就任。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アウンサンスーチー」の意味・わかりやすい解説

アウンサンスーチー
あうんさんすーちー
Aung San Suu Kyi
(1945― )

ミャンマー(ビルマ)の反体制民主化運動指導者。ヤンゴンラングーン)生まれ。イギリスによる植民地支配に抗して闘い、独立達成寸前に暗殺された「建国の父」アウンサン将軍の長女。1967年にイギリスのオックスフォード大学を卒業。1972年にイギリス人学者マイケル・アリスMichael Aris(1946―1999)と結婚。オックスフォード大学講師などを務め、1985年(昭和60)10月から1986年6月まで、京都大学東南アジア研究所研究員として滞日したことがある。1988年4月、ミャンマーで民主化運動が高まり、軍の実力行使による内乱状態のなか、イギリスから帰国。「非暴力不服従」を唱え、反政府民主化運動の指導者となる。同年9月、最大野党「国民民主連盟(NLD=National League for Democracy)」の総書記に就任したが、軍事クーデターで民主化運動は鎮圧された。1989年7月以来、国家保護法の名目で軍事政権によって自宅軟禁を強いられていたが、1995年7月、軟禁を解除された。1991年にノーベル平和賞を受賞。2000年9月、政府により、行動制限措置(自宅軟禁)を受ける。2002年5月措置を解除され、以後地方訪問や軍政批判の活動を行ってきたが、2003年5月マンダレー近郊で政府に拘束された。日本政府はこの拘束への制裁としてミャンマーへのODA(政府開発援助)の凍結を決定した。2003年9月からふたたび自宅軟禁。2010年11月、軟禁措置は解除され、2011年8月にはミャンマー新政府大統領テイン・セインThein Sein(1945― )と初めて会談した。2012年1月国民民主連盟中央執行委員会議長に就任し、4月に行われた上下両院および地方議会補欠選挙では、初めて選挙に参加して下院議員に当選。また、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟は1990年の総選挙以来22年ぶりに選挙に参加し、補選の対象となった45議席中43議席を獲得した。

 2015年の総選挙では国民民主連盟が圧勝し、民主的政権に移った。2020年の総選挙でも国民民主連盟は大勝したが、惨敗した国軍系政党の連邦連帯開発党(USDP)は選挙に不正があったと主張した。2021年2月、国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチーは拘束。軍事政権下、収賄・選挙違反などの罪で収監されている。

[編集部]

『伊野憲治編訳『アウンサンスーチー演説集』(1996・みすず書房)』『アウンサンスーチー著、土佐桂子、永井浩訳『ビルマからの手紙』(1996・毎日新聞社)』『アウンサンスーチー著、大石幹夫訳『増補版 希望の声――アラン・クレメンツとの対話』(2008・岩波書店)』『田辺寿夫、根本敬著『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(2003・角川書店)』


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現代外国人名録2016 「アウンサンスーチー」の解説

アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

職業・肩書
民主化運動家,政治家 国民民主連盟(NLD)党首,ミャンマー下院議員

国籍
ミャンマー

生年月日
1945年6月19日

出生地
ビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)

学歴
デリー大学卒,オックスフォード大学〔1967年〕卒

勲章褒章
オーストラリア名誉勲章〔1996年〕, 自由勲章(米国大統領)〔2000年〕, レジオン・ド・ヌール勲章

受賞
ノーベル平和賞〔1991年〕,サハロフ人権賞〔1991年〕,シモン・ボリバル賞〔1992年〕,ブレーメン連帯賞〔1993年〕,ネール賞〔1995年〕,アメリカン大学名誉博士号〔1997年〕,オロフ・パルメ賞〔2005年〕,マハトマ・ガンジー国際平和和解賞〔2009年〕,オックスフォード大学名誉博士号〔2012年〕(1993年授与決定),自由都市・堺平和賞(第3回)〔2012年〕,地球市民賞〔2012年〕

経歴
英国の植民地支配と闘ったビルマ建国の父として国民に敬愛されるアウン・サン将軍の長女。1947年2歳の時暗殺で父を失い、’62年のネ・ウィン将軍のクーデター後、駐インド大使に任命された母ドー・キン・チー女史とともにニューデリーへ移る。その後オックスフォード大学に留学。’72年に英国人のチベット研究家マイケル・アリスと結婚、2人の息子をもうける。英国市民権を持つ。’85〜86年京都大学東南アジア研究所の客員教官として来日、父を知る日本人関係者に会って資料を集め、後に父の伝記を出版した。’88年4月病気の母を見舞うため帰国、民主化運動が高まるビルマの激動期に居合わせた。8月セイン・ルイン政権が崩壊、反政府統一戦線結集会で民主化の早期実現を訴え、反政府勢力の中心的存在として脚光を浴びる。9月ビルマ最大野党の国民民主連盟(NLD)総書記長に就任。’89年6月軍政府は国名をミャンマーに改名。再び反政府運動が激化したため、7月ソウ・マウン軍事政権によりヤンゴンの自宅で軟禁され、以後政治活動を禁止され、2010年まで断続的に軟禁状態が続いた。軟禁中の1991年“民主主義と人権のための非暴力闘争の勇気”に対し、ノーベル平和賞が授与される。末期の前立腺がんを患っていた夫マイケルは亡くなる前にミャンマーへの入国を求めたが、軍事政権に拒否され、夫婦の再会は果たせぬまま、’99年3月死去。一度出国すると軍事政権側に再入国を拒否されるおそれがあるため、夫の葬儀にも出席しなかった。2010年11月自宅軟禁が解かれる。2011年春、ミャンマーは民政に移管。2012年1月NLD議長(党首)に選出。4月連邦議会補選で下院議員に初当選。2013年3月党首再選。2015年11月、民政移管後初の総選挙でNLDが軍事政権の流れをくむ与党・連邦団結発展党(USDP)に圧勝し、第1党となる。テイン・セイン大統領は“平和的に政権を委譲する”との声明を発表して1960年代より続く軍事政権からの政権交代を認めたが、憲法は外国籍の親族のいる人物の大統領資格を認めておらず、現段階では大統領には就任できない。著書に「Freedom from Fear(恐怖からの自由)」(1991年)。

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百科事典マイペディア 「アウンサンスーチー」の意味・わかりやすい解説

アウンサン・スーチー

ミャンマーの政治指導者。ヤンゴン(旧ラングーン)出身。ビルマ建国の父,アウンサン将軍の長女。デリー大学,オックスフォード大学卒。卒業後,英国人のチベット学者と結婚。1969年―1971年国連職員,1985年―1988年京都大学東南アジア研究センター研究員。1988年帰国後,反軍事政権運動の中心的存在となり,同年9月国民民主連盟(NLD)の党書記長に就任。1989年7月以来6年間にわたって自宅軟禁状態に置かれた。1990年5月の総選挙には立候補できなかったが,NLDが大勝。しかし軍事政権はその後も居座り,1991年4月に軍事政権の圧力で党書記長を解任される。1991年12月ノーベル平和賞受賞。その後,軍事政権側からの,国外へ出るなら釈放するとの誘いを拒否。1995年7月自宅軟禁から解放,同年10月NLD書記長に復帰。自宅前集会を通じて軍事政権を批判,政権の委譲を訴えてきたが,依然として軍事政権側の監視下にあり,政治活動も制限を受けた。2000年9月に再び自宅軟禁,2002年5月には解放されたが,2003年三たび拘禁された。2009年5月,米国人男性の自宅侵入が〈国家転覆防御法〉違反であるとして起訴され,1年6ヵ月の自宅軟禁の刑が言い渡された自宅軟禁は最長6年であることから,軍事政権が拘束延長を狙ったとみられる。2009年7月国連事務総長潘基文がミャンマーを訪れたが,軍事政権は面会を許容せず,軍事政権に対する国際的な批判が続いた。2011年,ミャンマーのティン・セイン政権は欧米との関係改善を目指して,漸進的な民主化方針を採り始め,スーチーと対話を開始,政治犯を釈放,NLDの政党としての再登録を承認した。2011年には米国のヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問,スーチーと面会するなど,ミャンマーの民主化加速を世界に印象づけた。スーチーは2012年1月NLD中央執行委員会議長に選出され,4月,議会補選に立候補,NLDはスーチーを含む41人を当選させた。最大野党を率いるスーチーは2013年3月軍の式典に出席するなど,民主化を後戻りさせないために軍にも一定の妥協的姿勢と現実政治的姿勢を示しつつ,憲法改正と次期大統領選出馬を視野に入れて活動しているとされる。
→関連項目ノーベル平和賞

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知恵蔵 「アウンサンスーチー」の解説

アウン・サン・スー・チー

ミャンマー(ビルマ)民主化運動の象徴的存在。1945年、ビルマ独立の指導者アウン・サン将軍の長女として、首都ラングーン(現ヤンゴン)に生まれる。15歳の時、母キン・チ-のインド大使就任に伴い、ニューデリーに移住。名門女子大レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、英国のオックスフォード大学に進学し、哲学・政治学・経済学の学位を取得した。卒業後、69年から71年までニューヨークの国連本部に勤める。72年、英国人仏教学者マイケル・エリアス(99年に死去)と結婚し、約1年半、ブータン王国外務省で研究員として働く。その後、ロンドンに拠点を移し、父アウン・サン将軍の研究を始める。85年10月、父の足跡を追って来日し、翌年6月まで京都大学東南アジア研究センター(現・同大東南アジア研究所)の客員研究員として滞在した。88年、26年間にわたって軍事独裁を続けてきたネ・ウィン元大統領が党総裁(ビルマ社会主義計画党)辞任を発表すると、ビルマ国内で学生を中心に激しい民主化運動が起こった。母の看病で帰国していたスー・チーも、これに合流。同年8月26日、シュエダゴン・パゴダで、数十万人の聴衆を前に民主政権の樹立を訴えた。この演説の後、国民民主連盟(NLD)を設立し、書記長に就任。ビルマ国内を遊説するなど、本格的な政治活動を開始したが、クーデターで全権を掌握した新軍部の国家秩序回復評議会(SLORC)によって、89年に自宅軟禁に置かれた。90年5月の総選挙では、NLDが圧倒的多数の議席を得たものの、SLORCは政権委譲を拒否。その後、国家平和発展評議会(SPDC、97年にSLORCから改組)のタン・シュエ軍事独裁政権が現在まで継続することになる。スー・チーの自宅軟禁は98年7月に解かれるが、その後も、拘束・軟禁は2000年9月~02年5月、03年5月~10年11月と計3回にわたって繰り返された。1回目の軟禁中には、人権擁護への貢献が認められ、1990年に10月トロルフ・ラフト賞(ノルウェー財団)、91年7月にサハロフ賞(欧州議会)を受賞している。91年10月には、民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アウンサンスーチー」の意味・わかりやすい解説

アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

[生]1945.6.19. ビルマ,ラングーン
ミャンマーの政治家,民主化運動指導者。ミャンマー独立運動の父と呼ばれるアウン・サンの長女,母は著名な外交官。1960年母のインド大使着任に伴ってインドに渡り,当地で教育を受けた。その後,イギリスのオックスフォード大学に留学,政治学,哲学,経済学を学んだ。1972年イギリス人学者マイケル・エアリスと結婚。1988年に単身帰国,軍事独裁政権に抵抗して同 1988年9月に国民民主連盟 NLDを創設,書記長に就任した。反政府運動を率いて活躍したが,1989年7月にティン・ウ NLD議長とともに自宅軟禁処分となった。軍事政権から国外退去を条件に自由を認める提案を受けたが拒絶。1991年 NLD書記長を解任されたが,1995年7月に軟禁を解かれると 10月には NLD書記長に復帰。2000年9月から 2002年5月まで再度自宅軟禁。2003年に再び自宅軟禁となり,2009年に国家転覆防御法違反で逮捕され,有罪判決を受けた。2010年に NLD解党。2011年8月,文民出身のテイン・セイン大統領との会談が実現,同年 12月にはアメリカ合衆国のヒラリー・R.クリントン国務長官と会談した。2012年4月に実施された下院補欠選挙に復党した NLDから出馬して当選を果たした。1991年,非暴力によるミャンマーの民主化運動への貢献によりノーベル平和賞を受賞,同年サハロフ賞も受賞した。著書に『自由 自ら綴った祖国愛の記録』Freedom from Fear: And Other Writings(1995),『増補復刻版 ビルマからの手紙 1995~1996』Letters from Burma(1997)など。

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367日誕生日大事典 「アウンサンスーチー」の解説

アウン・サン・スー・チー

生年月日:1945年6月19日
ミャンマーの民主化運動指導者

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アウンサンスーチー」の解説

アウン=サン=スー=チー

スー=チー

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアウンサンスーチーの言及

【ミャンマー】より

…超大国に対しては等距離姿勢をとり,79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退した。【大野 徹】
【政治】
 1988年6月から起こった反政府運動は,しだいに全国的な運動に発展し,アウンサン将軍(独立運動の指導者)の長女アウンサン・スーチーAung San Suu Kyiをリーダーとする民主化要求運動に集約されていった。9月には政治運動に乗じて,各地で暴動,掠奪,放火などが横行し,無政府状態となった。…

※「アウンサンスーチー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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