翻訳|Yangon
ミャンマー(ビルマ)連邦第一の都市。2006年10月までは同国の首都。正式呼称はヤンゴンであるが、英語風になまったラングーンで知られる。人口434万4100(2003推計)。ペグー山脈から流れるフライン川(ヤンゴン川)とペグー川の合流点に位置する。合流点から約30キロメートル下るとマルタバン湾に達する。熱帯モンスーン気候に属し、年平均気温は27.2℃。12月から2月までは比較的しのぎやすいが、4月と5月はきわめて暑い。年降水量は2574.2ミリメートルで、その80%は6月から9月までに降る。ミャンマーの政治の中心地であるとともに経済の中心地で、ヤンゴン港は同国の貿易の80%を取り扱う。ただし、各省庁など行政機能は新首都のネピドーにある。工業は以前から精米、製材工場が多数あったが、独立後は産業国有化政策により鉄鋼、薬品、ジュート紡績、造船などの国営工場が新設され発展が著しい。また、ヤンゴン大学、ヤンゴン工科大学など各種教育機関もここに集中する。交通面でも同国の中枢をなし、ヤンゴン港は運河によりイラワディ水系やシッタン水系と結ばれる。鉄道はマンダレー、プローム、マルタバンの各市への起点で、北部のミンガラドン空港はこの国の空の玄関である。市内にはロイヤル湖やインヤ湖などの水道用人工湖があり、緑に包まれた市街地や公園が多い。また都心部の広場にある優美なスーレー・パゴダ、ヤンゴン丘陵にある金箔(きんぱく)を施した巨大なシュエダゴン・パゴダなど、仏教国の主都にふさわしく多くの仏塔がある。
[酒井敏明]
18世紀までは、シュエダゴン・パゴダ(伝承によれば紀元前6世紀ころの建立の仏塔)を擁する一寒村にすぎず、聖地ダゴンとして知られるのみであった。王朝時代の都は、もっぱら上ビルマに置かれ、下ビルマの中心はペグー(現、バゴー)にあった。また、海港として栄えたのも対岸のダラ、シリアムや、ペグー、マルタバンなどの港であった。ダゴンが重要性をもつのは、18世紀にアラウンパヤー王が全ビルマを統一して以降のことである。1755年、モン人と戦ってダゴンの町を占領したアラウンパヤー王は、この地に城砦(じょうさい)を築き対モン人戦争の軍事基地とし、敵の根絶を願ってこの地をラングーン(「戦いの終わり」の意。現代ビルマ語でヤンゴンYangon)と命名した。モン人制圧後、この町は下ビルマ統治の中心として機能し、また、王国最大の貿易港として発展していった。しかし、ヤンゴンが一大発展を遂げるのは、1852年の第二次ビルマ戦争後のイギリスによる一方的な下ビルマ併合以降のことである。
ヤンゴンはイギリス領ビルマの中心として再建拡張され、ほぼ現在のヤンゴンの原型が築かれた。20世紀に入るとその重要性は高まり、1870年代には約10万であった人口も、1901年には25万、1931年には40万と急増していった。この人口増加にはインド人労働者の移民が大きな部分を占めていた。ビルマ人は人口の30%弱を占めるのみで、インド人、華僑(かきょう)が経済活動を握るなど、典型的な植民地都市の様相を示していた。第二次世界大戦中の日本軍による占領、イギリス軍の再占領によって、都市の大部分が破壊されたが、1948年にビルマが独立すると、独立国家の首都として面目を一新した。1988年のクーデターにより政権を掌握したミャンマーの軍事政権は、2005年11月以降同国中部の都市ネピドーへの首都機能移転を進め、2006年10月にはヤンゴンにかえて、ネピドーをミャンマーの首都とした。
[渡辺佳成]
ミャンマー(旧ビルマ)の旧首都。北緯16°36′,東経96°10′に位置し,北西から流れてくるフライン川(ラングーン川)と北東から流れてくるペグー川との合流点,河口からは34kmさかのぼった地点にある。人口446万(2004)。1989年6月に国名がビルマからミャンマーと変更された際,英語名のラングーンRangoonもビルマ語のヤンゴンと改称。2006年首都はネーピードーへ移転された。市街地北部のティンゴウタヤ丘の上に高さ約100mのシュウェダゴン・パゴダがあり,古くから聖地ダゴンDagonとして知られていた。このパゴダは,伝説によればオッカラーパ出身のモン族商人タプッサ,バリカ兄弟が釈迦からもらった聖髪を,過去三仏の遺品があるこの丘に安置したのが起源とされる。最初は高さ数mの小塔であったが,モン,ビルマ両民族の王たちが増築を重ねた結果,現在の高さになったと伝えられている。聖地としてのダゴンは,18世紀の中ごろモン族と戦ってこの地を制したビルマ族のアラウンパヤー王によって新しい城砦に改造された。王は,敵の一掃を願ってこの城砦にヤンゴン(戦いの終りの意)と命名した。ビルマ各地がまだモン族の手中にあった当時,ヤンゴンはもっぱら軍事基地として機能した。東側500m,西側200m,東西幅約1kmの不等辺四角形をした城砦の周囲には,チークの丸太を打ち込み,その上に銃眼を備えた高さ6mのがんじょうな防御柵があり,その外側には深い堀が掘られ,その外側には沼や湿地が広がっていた。人口は18世紀末で約3万であったと報告されている。
19世紀に入ると,ヤンゴンには港湾としての価値が加わり,ビルマ王国の輸出入の大半はヤンゴン港を通して行われた。1824年,52年のビルマ戦争の際,開戦と同時にイギリス軍がヤンゴンを占領したのは,港湾都市としての重要性によるものであったろう。第2次ビルマ戦争後,ラングーン(ヤンゴン)はイギリス領ビルマの中心として再建され,戦火で破壊された市街地は,綿密な設計のもとに縦横整然とした町並みに整備された。重要性は20世紀に入ってますます高まり,人口も1931年には40万にまで増えた。48年にビルマが独立すると,首都として政治,経済,産業,貿易,教育,文化の一大中心地となった。増え続ける人口対策として,58年には北東郊外に南オッカラーパ,その北に北オッカラーパ,バズンダウン川の対岸にターケータの3衛星都市が建設された。
執筆者:大野 徹
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ラングーンともいう。ミャンマー連邦の首都。イラワジ川の河口付近に位置するミャンマー第1の都市。ダゴンと称していたモン人の町を,1753年この地を占領したアラウンパヤー王によってヤンゴンと改名された。コンバウン朝の外港であったのを,第2次イギリス‐ビルマ戦争以後イギリスが植民地経営の拠点としてこの地を選び,首都機能を整備,充実させたのが始まり。以後この地には多くのインド人や中国人が流入し,国際都市の様相を呈するに至る。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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